当時から職人気質のミュージシャンに憧れていたインディーズ時代
──でも、FUNKISTの初期の曲を聴くと、すでに完成されているようにも思えます。単純な構成ではなく、演奏技術の高さがうかがえますよね。
染谷:自分も宮田も、父親がフラメンコ・ダンサーやギタリストだったりして、ヨシロウもジャズ畑で学んでいたりと、誰もいわゆる8ビートのロックをちゃんとは通ってないんです。共通しているのは、職人気質のミュージシャンが憧れだったこと。お茶の間で有名でなくても、スタジオで一音鳴らしただけで鳥肌が立つような人たちに触れてきて、「こういう人になりたい!」と思っていたからですかね。
──なるほど。だからいろんなジャンルがミックスされているんですね。
染谷:はい。自分たちの好きなものを全部入れようとした結果、ジャンルレスな音楽になっていきました。
──宮田さんはバークリー音楽大学で学んだ後、プロの音楽家になろうとは思っていなかったんですか?
宮田:夏休みに一緒にバンドを組んだときにすごく楽しくて、期間限定のはずだったんですけど「このまま続けたい」と思ったんです。ただ、このまま続けるよりバークリーで知識をつけてから戻ったほうがいいと思い、一度アメリカに帰ることにしました。そこからは、自分が学んだことをFUNKISTに還元できたらという気持ちで勉強していました。残ったメンバーでバンドは継続してもらって。

染谷:バンドを始めてから、全員が自然とFUNKISTに向かっていった感じでしたね。
──ヨシロウさんはジャズをやっていたんですよね?
ヨシロウ:そうですね。でもジャズから派生してワールド・ミュージックやラテン音楽にも惹かれて。弟子をやっていた頃から、自分の音楽を表現できる場が欲しかったんです。それに、染谷西郷という存在がすごく大きかった。ライヴや歌の表現するエネルギーがすごくて、特別なものを感じていました。周りのみんなも、「染谷西郷に魅せられて」が合言葉だったんですよ。本人は知らなかったかもしれないけど。
染谷:知らなかった(笑)。もっと早く知りたかったな。
──そのことに対して染谷さんはどう感じますか?
染谷:ヨシロウは何度か脱退してるんですが、そのたびに「俺は額縁なんです」とよく言ってました。FUNKISTや染谷をよく見せるための額縁でありたいって。「あなたをよく見せるためのギターなら、俺が世界一です」といつも言っていて。その時点で宮田はもう世界2位になりますね(笑)。
宮田:1位は譲ります(笑)。でも、ソロでやるよりもバンドで集まったほうが自分の力が引き出される感覚があるんですよ。なので強いて言えば、2人をもっと引き出せてるのは俺かな?
染谷・ヨシロウ:(笑)
──YouTubeの座談会動画でも話していましたが、沖縄のバンドだと思われていたそうですね。実際に“沖縄”という曲があったり、“光”では三線が入っていたりしますが、どうしてそのような方向性になったのでしょうか?
染谷:自主で活動していたときに、沖縄でイベントを主催している人と出会って、彼が沖縄でFUNKISTを広げてくれたんです。でもそれ以前から、沖縄・広島・長崎などを訪れる中で平和について度々考えていました。そのことが“光”などの曲に繋がっていきましたね。
宮田:沖縄では、年間8回のライヴを2年連続でやってましたね。
──インディーズ・バンドが沖縄まで遠征するのは大変じゃなかったですか?
染谷:みんな毎日アルバイトしてましたね。夜は母親のバレエ・スタジオで練習と決めていたので、働くのは18時までがルールで。ツアーを回るときも、機材を乗せた7人乗りの車にみんなで車中泊してました。
──そういうバンドの動き方はもともと知っていたんですか?
染谷:いや、知らなかったんです。始めたのが遅かったから、誰にも聞けず手探りで。初ライヴのときも、当時はネットもなかったので、タウンページの「ら」の行で「ライヴハウス」を探すところからでした。かっこよさそうな名前で選んだのが〈LosAngeles Club東高円寺〉。公衆電話から連絡したら、「ホール・レンタルですか? ブッキングですか?」と返ってきて。ブッキングの意味もわからないまま「ホール・レンタルで」と答えたんです。なので僕らの初ライヴはワンマンだったんですよ(笑)。
宮田:「ライヴやるのに10万円もかかるんだ!?」ってびっくりしたよね(笑)。
染谷:曲数も足りなかったので、同じ曲を2回ずつやってなんとか15曲にして。カヴァー曲も混ぜたんですけど、“No Woman, No Cry”の2回目はさすがにバレてたかな(笑)。
ヨシロウ:ベースが2人、ドラムも2人いて、ちょっと変わった編成だったよね。
染谷:そのライヴが終わって、宮田がバークリーに戻ることになって。もともと期間限定バンドだったので、メンバーがどんどん抜けていきました。残ったのはヨシロウとパーカッションのメンバーと僕。パーカッションの彼がドラムに転向して、ベースを新たに入れて、最低限4人いればできるだろうってことで再スタートしたんです。
──当時のライヴの雰囲気は今と違っていましたか?
染谷:初期はかなりストイックなライヴをしてましたね。でも、2006年に南アで初めてツアーをしたときに、当時アパルトヘイト終結から数年しか経っていないこの地で、「どうしたらライヴハウスをひとつにできるか」と真剣に考えたんです。そんななかで、自分たちが心から楽しんでる姿が少しずつ観客にも伝染して、会場がひとつになっていくのを感じました。その体験から、“楽しさ”は国境を越える共通言語なんだと確信できましたね。