対談連載『見汐麻衣の日めくりカレンダー』
「自分を救う」から「心地よい共同作業」へ、命題の変移──ゲスト : 横山雄(画家・デザイナー)

シンガー・ソングライターの見汐麻衣が、いまお会いしたい方をゲストにお迎えする対談連載、『見汐麻衣の日めくりカレンダー』。「大人になったと感じた時のこと」をテーマに据え、逆戻りの「日めくりカレンダー」をめくるように、当時のあれこれを振り返ります。
3回目となる今回のゲストは、画家、ブック・デザイナー、イラストレーターなどで活動されている横山雄さん。見汐さんのエッセイ集『もう一度 猫と暮らしたい』では、装画とデザインを担当されました。
多岐に渡り活躍される横山さんですが、自身の経歴をエリート・コースではなかったと語ります。自己の模索のなかで得たのは「失敗」の重要性と、それを許してくれた環境のありがたさ。その気づきの過程で「自分を救う」ための作品制作が、他者との共同作業において「場を良くする」ための柔軟な立ち回りへと意識が変化していきます。
過去の自分を顧みて言葉に落とし込む作業を繰り返してきた横山さん。その穏やかな語り口には、たしかな説得力がありました。
対談連載『見汐麻衣の日めくりカレンダー』過去の記事はこちらから
【第3回】ゲスト : 横山雄

文 : 石川幸穂
写真 : 安仁
漫画家を目指す途中で、デザインと出会う20代前半
見汐麻衣(以下、見汐):横山さんと初めてお会いしたのは2022年の秋ごろ、花井くん(花井優太、『もう一度 猫と暮らしたい』の編集を担当)が紹介してくれて、飲みに行ったのが最初だと記憶しています。
横山雄(以下、横山):そうでしたね。
見汐:今日お話しするにあたって横山さんの経歴を改めて調べていて、漫画の賞を取られていたと知って。漫画家を志されていたんですね。
横山:そうなんです。絵は好きでずっと描いていて、中学高校あたりから漫画家になりたいと思うようになりました。子どもの頃はほかの職業のこともよくわからないし、憧れられる身近な職業として漫画家がありました。

見汐:そうだったんですね。以前、ポポタムに行った時に偶然手に取った『POPOCOMI 1+2』(2021年、ブックギャラリーポポタム発行)に横山さんの漫画が載っていて、読みました。私は横山さんの描かれる線がとても好きで。これは私感なんですが、永島慎二(漫画家 1935年-2005年)さんの画を思い出すんです。ダンさん(永島慎二の愛称)の漫画がすごく好きで。横山さんが描く線から、ダンさんのテイストを感じたんです。それと、横山さんの作品って余白が多分にあって、俳句のような感じというか。ほどかれていくような心地よい感覚があります。当初からデザイナーやイラストレーター、画家として活躍されていたと思っていたので、漫画を描かれていたというのを知って驚いて。漫画家を目指しながら現在に至る過程を伺ってみたいと思って今日は来ました。横山さんにとってそれは自然なことだったんですか?
横山:それが、不自然でした。まず父親が、安定した職についてほしいという理由で漫画家になるのを反対していて。どうやらデザイン科というところだったら仕事がありそうだということで、桑沢デザイン研究所に入学できたんですが、本当は絵の勉強がしたくて油彩の学科に進みたかったんです。デザイン科に入ってみたら、デザインを真剣に学びたくて上京したり、大学から編入している人がたくさんいました。なので、ずっと自分の居場所ではないと思っていました。
見汐:周りの人との温度差を感じていたんですね。
横山:はい。なので学業に本腰が入らなくて、アルバイトをしていたTSUTAYAで音楽や映画に触れている時間のほうが多かったです。
見汐:TSUTAYAでバイトしてたんですね。漫画はいつごろから描きはじめたんですか?

横山:学校を卒業して実家を出た20代前半のころですね。それまでは「俺はまだ本気出してないだけ」と言い訳をして、いちばん楽な状態ですよね。そこから漫画家のアシスタントに入ることになって実際にやってみたわけなんですが、当時の自分との乖離が大きかったのと、職場とも合わなくてやめてしまいました。チャレンジが出来なかったために漫画は自分がやりたいことだと自己暗示的に思い続けた時間が長かったから、やめたあとに自分がなにを目指したらいいかわからなくなってしまって。
そもそもアシスタントの職場で感覚が合わないと思ったのが、学校で出会った人たちのほうが感覚が合うと気づいたからなんです。在学中は真面目に勉強していなかったけど、時間差で。
見汐:温度差を感じていた人達に時間を経て共感が生まれたんですね。なんとなくですが……わかります。音楽をやってるからといって同業の人とすべからく馬が合うわけじゃないですし、違う業種……それこそ横山さんとか、シンパシーを感じる方々がいたり。話していても共感する部分が多かったりすることもあります。当時その人たちと連絡を取ったんですか?
横山:堂々と付き合えるイーブンな関係ではないと自分で負い目に感じていたので、連絡は取らなかったんです。その人たちと同じ目線で関われることを探しているなかで、絵の個展を開くようになりました。
当時は、展示ができるギャラリーや小さい本屋など、オルタナティヴなスペースが増えていたころでした。2011年の震災のあとくらいですね。そういう場所とTwitter(現X)での発信がガチっとハマっていた時代でもありました。音楽とイラストレーションとZINEとが共存したような、カルチャーが充実した場所がたくさんあって。そういう場所でなら自分も並んでやれるような気がしたんです。
そういった場所が舞台となって、異なる目的を持った人たちが集まり、いろんなことが起こるということに展示をはじめたころからずっと希望を持っています。

見汐:はじめて個展を開いたのが20代半ばくらいですね。そのあとすぐに〈第83回 毎日広告デザイン賞〉(2015年)を取ってますよね?
横山:そうです。知り合いに誘ってもらって。
見汐:すごく考えて踏み出した一歩だったと思いますが、誘ってくれた方が横山さん自身になにかを感じなければ声をかけられることもないと思うんです。誰にでもある話じゃないし、考えて行動したことひとつずつちゃんと結果を出していて羨ましいです。私、賞なんて本当に縁がないもん。小学校4年生のときに貯金箱のコンクールで大賞もらったことくらいしかないです(笑)。