2025/03/24 18:00

突然現れた異才、野口文──ストラヴィンスキーとコルトレーンを線でつなぎ咀嚼する若き音楽家

野口文(都内某所 自宅兼スタジオにて)

野口文を知っているだろうか。後藤正文主宰の〈第7回APPLE VINEGAR -Music Award-〉で特別賞を受賞した『botto』(2023年)をきっかけに、彼と出会った人もいるだろう。その後のメディア露出はほぼなく、多くの謎が残されたままだった。時は経ち、2025年2月。野口文からセカンド・アルバム『藤子』が届けられた。一聴すると、難解でありながら親しみやすく、広くひらかれた印象を受ける。そしてぶっきらぼうであり、ホロリと泣かせる郷愁も持ち合わせている。ひとつの作品のなかに、いくつもの引き裂かれた視点が内包されているのだ。一体どんな人物によって生み出されたのだろう? その真相を知るべく、野口文を直撃した。

ジャズ、クラシックからポップスまで、音楽遍歴が反映された『藤子』


〈第7回APPLE VINEGAR -Music Award-〉特別賞を受賞したファースト・アルバム


INTERVIEW : 野口文


 突然現れた天才、あるいは異才。そういう表現がふさわしいアーティストは、これまでにも少なからずいる。だが、ここまでインフォメーションが皆無に近い人は珍しい。2023年にリリースされたファースト・アルバム『botto』は宅録作品であり、女性シンガーやラッパーが参加してはいるが、トラックはすべて1人きりで作られていた。その人物の名は、野口文。ジャケットに写る坊主頭の青年がそうなのだと言われても、すぐには信じられない。複雑さと洗練性が入り混じりながら圧倒的にチャーミングなポップスである音楽と目に見えている姿とでは、理解の回路がなかなかつながらない。そもそも1曲ずつの曲名すらない、全曲「botto」で順番にナンバリングがついているだけなのだから。キャリアを積んだ音楽人の変名仕事とかじゃないとしたら、いったい何者? 24年には『botto』が〈第7回APPLE VINEGAR -Music Award-〉にノミネートされた。賞金も受け取ったが、それでも取材記事の類はほとんど世に出ずじまい。謎と音楽だけが残った。

 しかし、野口文は実在した。まだ若いらしい。そしてSNSなどをいっさいやっていないらしい。どうやらスマホも持っていないらしい。ソロ活動以前に、コロナ禍の2020年から「C子あまね」というバンド名義で単曲やEPを配信していたらしい。

 そんな野口のセカンド・アルバム『藤子』が、今年2月にリリースされた。那須高原のロッジを長期で借り、前作と違い友人ミュージシャンたちを迎えてレコーディングされたアルバムの制作模様はYouTubeで公開され、そこには謎の男、野口文が映っていた。

 さらに驚嘆すべきはセカンド・アルバムの内容だ。ファーストの統一感から明らかに逸脱し、アヴァン・ポップからフォーク、ジャズ、クラシックまで手が付けられないほど幅広い。だが、底知れないと感じると同時に、正体不明と感じた前作よりも「野口文」という人間がより生々しくアルバムに表れているようにも感じた。そして、取材の場に現れた野口本人は、拍子抜けするほどフレンドリーだった。撮影では1人暮らしを始めた自宅まで公開してくれた。

 たぶん、他人が「ギャップ」とか「アンバランス」だと感じるような極端な要素が、野口の中ではしっかりと共存し、融合しながら自分の音楽を産むエネルギー源となっている。このロング・インタビューで、野口文についての「彼はどこから来たのか 彼は何者か 彼はどこへ行くのか」を意識しながら、彼の言葉を追ってみた。

取材・文 : 松永良平
撮影 : 沼田学

コルトレーンの『Love Supreme』を聴いて、そこからはもうそれしか聴いてないんです

──2月にリリースされた野口さんのセカンド・アルバム『藤子』。イントネーションは「フジコ↘︎」でいいんですか? それとも「フジコ→」?

野口文(以下、野口):「フジコ↘︎」でいいです。

──そうなんですね。そのタイトルも含めて、とにかく野口さんのことは謎ばかりなので、いろいろ聞かせてください。

野口:はい。NG無しです(笑)

──最初はソロではなく「C子あまね」という宅録ポップ・ユニット名義で楽曲を配信していて、それがひそかに注目を集めていたんですよね。そこからソロ名義でのファースト・アルバム『botto』(2023年)をリリース。でも、そのときはインタヴューを受けてないですよね? その後、ほぼノー・インフォ状態にも関わらず第7回APPLE VINEGAR -Music Award-にもノミネートされました。そのときもいっさい取材記事が出てない。

野口:誰も話を聞いてくれなかったんです(笑)

──そもそも音楽との出会いは?

野口:ちっちゃい頃からピアノをやってたので、クラシックはずっと聴いてました。高校でジャズを聴いて、クラシック以外にも幅が出てきたと思います。

──野口さんは今23歳で、2001年生まれですよね。思春期はすでにサブスクリプションも一般化してきていて、手を伸ばそうと思えばいろんな音楽に接しやすい世代だと思うんですが、その中で触れたジャズとは?

野口:最初にマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』(1959年)を聴いたんです。たぶん、配信だったと思います。そこからコルトレーンを知って、今は一番好きなんです。

──ジャズが好きになったら、他のミュージシャンもどんどん聴いていったタイプ?

野口:いや、それが違くて。『Love Supreme』(1965年)を聴いて、そこからはもうそれしか聴いてないんです(笑)。

──そうなんですか!

野口:僕は、あるアーティストを好きになってもあんまり他のアルバムを聴くタイプじゃないのかなと思います。好きな作品を繰り返し聴き続けますね。

──聴き続けることで見えてくる作品への接し方や自分の耳の変化を楽しむ感じ?

野口:ひとつの音楽に全部入ってるから、あれを聴けば十分なんじゃないかと思うんですよね。

──実は、浴びるように音楽を聴いて育った人なんじゃないかと予想したりしていたんですが、まさかの『Love Supreme』一択だったとは!

野口:そうですね。クラシックだとストラヴィンスキーが好きですね。一番最初に好きになったのは「ペトルーシュカ」です。「ペトルーシュカ」から「春の祭典」「火の鳥」と彼のバレエ曲を小学生の頃に聴きました。ジャズ以前に好きになっているから、僕の最初の音楽はそっちですね。のちにコルトレーンに出会ったときにストラヴィンスキーに似てる部分も感じたし、結局クラシックでもジャズでも同じような音楽が好きなんだなと思いました。

──すごいですね。影響源がたくさんある中から自我を作ることがデフォルトになりつつある時代に、ストイックなくらいの繰り返し。いわゆるJ-POPとかは?

野口:高校のとき、一緒にバンドやってたやつが冨田ラボが好きで。なので冨田ラボは聴いてました。

──冨田ラボは、ある意味J-POPの王道というより極地点みたいな偏執的アレンジとか研ぎ澄まされた音作りですが、そういうところに惹かれた?

野口:そこを感じてたんですかね、たぶん。

──そもそも野口さんの高校時代って、そんなに昔の話じゃないんですけど、すでに面白いです。高校3年で自宅でオリジナル曲を作り始めたそうですが。

野口:初めて作曲らしいことをしたのは高校1年生なんです。音楽の授業の学期末テストが、舞台の上で5分間何を発表してもいい、みたいな形式だったんです。そこで一緒にバンドを組んでいたやつと、ピアノとコントラバスのユニットで曲を作ったんです。その2人が組んだのが、C子あまねなんです。

──あ、もうその時点で!

野口:ただ、その発表の頃はジャズと出会った直後なんで、曲はジャズ寄りでした。そもそもその時点ではDAWも知らなくて、ピアノを弾いて曲を作っていったんです。その後にすぐDAWを知って、パソコンでの作曲に移りました。それまでピアノしか弾けなかった自分にとっては「いろんな音が鳴るのがすげえ!」という感じでしたね。

──その進歩を通じて、それまで好きだったストラヴィンスキーやコルトレーンの音楽の中にあった色が見えてきたような感覚?

野口:そうだったかもしれないです。

──テストでの発表後も作曲は続けたんですか?

野口:発表して、DAWを買って、冨田ラボを知って、C子あまねとして発表していく曲を作り始めたという感じです。曲はドラマーと一緒に作ってたんですけど、わりと同じ方向は向いてたかな。方向性といっても、「冨田っぽいね」みたいな単純なレベルですけど(笑)。

──そのときに、ずっとクラシックをやっていたから和声の感覚が新たに学ばずとも体に入っていたという利点はあった?

野口:それはたぶんあります。ピアノをやってたかどうかで音階の見え方も全然違うんだろうし。高二くらいで、ストラヴィンスキーの先というか、もっと現代音楽に向かった曲も聴くようになってきました。僕が通っていた早稲田大学の附属高校では、大学入試が無い代わりに卒論があって、「現代音楽を今のポップスにどう落とし込んでいくか」みたいなテーマで書きました。そういうことを書くくらいには入り込んで聴いてました。

──それはまさに今の野口文としての活動にも通じてるテーマじゃないですか。

野口:自分の中にあったんでしょうね。論文の内容は夏休みの自由研究みたいなレベルで、本当に大したことなかったと思いますけど(笑)。

──大学では音楽サークルには属した?

野口:入りました。「中南米研究会」に。C子あまねも続けてました。

この記事の筆者
この記事の編集者
石川 幸穂

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[インタヴュー] 野口文

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