“47climax”に込めた「あなたのために歌ってるよ」というメッセージ
──“47climax”はどうやって生まれた曲で、なぜ時を経て音源化することになったのでしょうか。
染谷西郷(Vo/以下、染谷):まずこの曲ができた背景として、2007年、2008年に47都道府県を回る〈47climaxツアー〉というツアーをしていて。“clim”と“ax”を分けると、「アックスに登る」っていうサブ・メッセージになっていて、当時あったライヴハウス〈SHIBUYA-AX〉(収容人数約1,700人のライヴハウス。2014年5月をもって営業終了)に立つことを目標に回ったツアーだったんですね。当時はみんなアルバイトをしながらツアーを回っていて、小さいバンに7人で乗って車中泊ばっかりが続く感じで。すごく疲弊していったり、「俺たち本当に音楽でやっていけるのかな?」と不安になることが多かったんです。そういう不安を感じながら、たったひとりライヴで出会ってファンになってくれた人たちのおかげで何とかツアーを回って、最終的には全国からみなさんが集まってくれたことでAXをソールドアウトまで持っていけたんです。そういう経緯で「最後はAXで俺たちの思いを曲にして伝えようよ」と作ったのが“47climax”という曲でした。
宮田泰治(Gt/以下、宮田):当時は手探りというか、「本当に先に光はあるのだろうか?」と思いながらやっていて。“47climax”と同じ時期に作った“三日月トリップ”は後からリリースされたんですけど(2017年)、 “47climax”は何度もアレンジを試すものの、どうしてもしっくりこない部分があって。でも、今回のツアーと野音ワンマンが決まって振り返ってみると、何かこのときのための曲だったんだなと思いましたね。出すべきタイミングを待ってくれていたような曲だな、という印象です。
ヨシロウ(Gt):“47climax”の歌詞は、作った当時からほぼそのままなんです。ツアーを回って出会った人たち、応援してくれてる人たちとの絆をずっと大事にしてこれたこと、曲ができてから自分たちが変わらずにいれたということをすごく誇りに思います。個人的にもめちゃくちゃ大好きな曲で、だからこそ完成系を見いだせなかった部分もあって。それを今、形にすることができてすごく嬉しいし、今までのことが全部詰まってるので聴くたびに涙腺が緩むぐらいのインパクトがあります。
──16年越しに出す曲をそういうふうに思えるってすごいことですよね。「これは今の自分たちとちょっと違うからやめておこう」みたいになる可能性もありますもんね。
染谷:珍しいタイプですよね。作ってから16年経って今いちばん好きなんて、なかなかないと思います。伝えたい思いがすごくはっきりしてる曲なので、歌詞の物量がとにかく多いんですよ(笑)。リフレインのキャッチーさみたいなものが皆無で、誰かに書いた手紙みたいな感じで。それと、展開が多くて飽和しているのをまとめきれなかったのも、大きな理由だと思います。作詞者としては歌詞をもっと少なくして、わかりやすいパワーワードで再構築することがいいとは思いつつも、この曲は削るのが難しかったんですよね。そうしているうちに16年経って、技術的にもバンドとしての厚み的にも、ひとつの作品として表現できるところにバンドが来たということなんだろうなと思ってます。

──この曲ができた時点でバンドとしてはもう8年目で、メジャー・デビューした年ですよね。バンドとしては結構イケイケな時期だったのでは?
染谷:対外的にはメジャー・デビューしてタイアップもポンポン決まってすごく華々しくて、自分たちも夢に向かってすごく全力でいたけど、7人のバンドがミュージシャンとして音楽で食べていくという難しさに直面した時期でもあったんです。すごく足掻いたし、もうひとつ上のステージ上がるための葛藤が多かったですね。
──FUNKISTの特徴のひとつだと思いますけど、コーラスが入ることでみんなで歌えるというところがすごくいいですね。“47climax”のコーラスには特にその頃の3人の思い、当時のメンバーたちへの思いも込められているのかなと思いました。
染谷:それは間違いなくあると思います。あのときに書いた「あなたのために僕は 歌を歌っていよう」「振り返らずに行こう」っていう言葉、8年目に打った楔を16年経って歌ったときに、「今でもこのロープ、あそこにちゃんと繋がってるぞ」っていう実感はすごくあって。辞めていったメンバーや、天国に旅立った春日井陽子というフルーティストとの出会いがあったから、今のFUNKISTがあるというのは感じてます。
宮田:結成から8年間自主でこだわっていたのは、やりたいことや伝えたいことを大切にしたかったからなんですよね。メジャーではいわゆる「大人が増える」っていうところでの戦いというか、「自分たちらしさ」とのせめぎ合い、ぶつかり合いがすごく多くて。いちばん戦ってた時期なんじゃないかなって。別に戦う必要はなかったのかもしれないですけど(笑)。でも、小さな妥協でもひとつすると、それに積み重なって大きな妥協もできてしまうようになってしまったんじゃないかなと思っていたんです。そのときに戦ってきたものが、最終的にFUNKISTらしさに繋がったと思いますね。
染谷:それまでにもメジャー・デビューの話は何回かいただいていたんです。「レコーディングは違う人に演奏してもらって、クオリティを高めましょう」みたいな話もあったり。
──2008年でもまだそういうことがあったんですね!? 1980年代のバンド・ブームのときはよくあったと聞きますけど。
染谷:あったんですよ(笑)。でもファンの人たちとライヴハウスで作ってきたものが自分たちの中心にあったので、それを裏切ることだけは絶対にできなかったんです。曲げたら得できる近道はいっぱいあったけど、「それを選んだら俺たちじゃないよな」って。そういう意味では、あのときに妥協してたら多分もう解散してる気がするし、25年は踏ん張れなかったと思います。
──いろんな葛藤があったんですね。
染谷:今でこそ笑って話せますけど、デビュー曲の“my girl”はヨシロウ作曲なんですよ。当時は自分も若かったから「なんで俺の曲じゃねえんだよ!」って、ヨシロウにすげえ嫉妬心を持って、口を利かなくなったりして。ヨシロウはヨシロウで申し訳なさそうな感じで(笑)。今になって、他のメンバーも曲作った方が面白いと思うようになったけど、当時は若さの中で「自分たちらしさ」をすごく探していたのかもしれないですね。
ヨシロウ:それまで自分たちで全部決めていたところが、メジャーでは色んな期限によって全員が納得できていなくても進まなきゃいけないようなところが出てきて、「これが大人になるってことなのかな」と思っていました。「これをどうみんなで乗り越えるのか、何を大事にすべきか」を考えてましたね。でも応援してくれた人たちを裏切ることはしたくないし、ライヴだけは嘘がないように大事にしていました。そのことが今に続いているのかなって。
染谷:メジャー・デビューしたときは、担当の方たちに対して「絶対にこの人たちには譲らない!」みたいな敵対心を持って、かなりのぶつかり合いをしていたんです。だけど俺らが恵まれてたのは、そのぶつかり合いの中でその人たちがどんどん味方になってくれて、最終的には自分たちが大事にしているものを一緒になって伝えてくれるようになっていったんです。未だに当時よくしてくださった方たちと連絡も取るし、ライヴも見に来てくれています。それはきっと、同じ時代にお互い全力で嘘なく音楽と向き合ったからだと思うんですね。それは、「あなたのために歌を歌ってるよ」っていう“47climax”の歌詞とすごく繋がっていると思っています。