『botto』が出来のいい弟だとしたら、『藤子』は要領の悪い兄ちゃん

──コロナ禍にC子あまねの音源は結構噂になっていたと思うんですが、ファースト・アルバムでは野口文の名義にしたのは何故?
野口:『botto』はC子あまねとして出すつもりだったんです。ただ、C子あまねとして出すと中身が見えづらくて、それが良い場合もあるけど、つかみづらさを産む場合もある。そもそも勝手に自分で作っていた音源だったし、僕の個人名で出したほうがわかりやすくなるかなと思って。
──ただ、C子あまねとして配信していた時代とは、ヴィジュアル・イメージもガラッと変わりますよね。同一人物とは思えないくらい。C子あまねは、いかにも現行のシティ・ポップみたいな音楽をやりたい人たちなのかなというイメージ。『botto』は野口さん自身が写っているけど、逆に謎すぎる(笑)。
野口:C子あまねも「バンド」で、作曲者はもう1人いるんですけど、基本的には僕が勝手に1人で曲を作ることが多かったし、ドラムとベースがいるのに両方とも打ち込みで作っていたし、やってることはあんまり変わりないんです。ジャケットもカメラマンの方に実家で撮ってもらったものを自由にデザインしてもらったものだし。
──確かに今こうして話しているからジャケに写っている青年が野口さん自身だとわかるんですけど、知らずにこのヴィジュアルを目にしたら、撮影用に起用された別人だと思っている人もいるかも。それくらい音とジャケのびっくり度が違うベクトルにある。曲名はどういうことなんですか? 全曲「botto」の後にナンバリングだけ。
野口:曲名も全然意識的ではないんです。もともとデモの段階では番号だけで、完成するにあたってさすがにタイトルを付けようかなと思ってたんです。いざ歌詞から取ったフレーズで付けてみたら、ミックスしてくれたエンジニアの奥田(泰次)さんにめちゃ評判悪かった(笑)。「イメージが付いて聴こえ方が変わっちゃうよ」と言われたので、だったら「botto」と数字だけでいいかなと。

──セカンド『藤子』では曲名もそれぞれちゃんと付きました。録音方法も含めていろんな過程が変化しましたよね。ヴィジュアルや曲名などは前作のほうが明らかにポップスっぽさがなく実験作品みたいに思えるのに、今聴くと曲はすごくポップ。今回の『藤子』のほうがより遠くまで球を投げてるというか、野口さんの音楽体験がもっと長いスパンで反映されていると思います。
野口:そうかもしれないです。『botto』はいいアルバムだと自分でも思ってるんですけど、ファースト・アルバムと言いつつC子あまねの延長線上ではやっていたことを、あまり考えずに出したような作品でもあった。だから聴きなじみもいいし、良くて当たり前という感じもしていて。それをセカンドでまたやるみたいなことはしょうもないので、そこからどう新しく作っていくかという作業ではありました。やっぱり変わっていかなきゃいけないと思って作りました。ただ、『藤子』については反省もあるんです。でもそれはしょうがない反省で、音楽を作り続けていくうえで変わる地点は必要だから、そこで失敗するのは当たり前という感覚です。
──出たばかりのニュー・アルバムに対して早くもその俯瞰を持てているのがそもそもすごいですよ。『藤子』で新たに取り組んだのは宅録+αというか、ゲスト・ミュージシャンを入れて、那須高原にレコーディングで合宿するという制作方法ですよね。YouTubeでもその合宿の模様は公開されています。
野口:『botto』を録った自宅での作業が過酷すぎたからです(笑)。もうちょっと広いスペースで、合宿でやりたかった。それで1ヶ月借りれる別荘を探しました。参加してくれたのはみんな大学の仲間で、2回くらいライヴをしたときの主要メンバーなんです。最初の3日間で、ラフというか、デモ自体を録っていくようなスタートでしたね。『botto』では最初から1人で細かく作り上げていったんですけど、今回は人の手を加えられる場所を増やしてみたかった。
──『botto』に比べて、明らかにノンジャンル的というか、ポップスからジャズ、クラシカルなインストまですごく拡張された世界観なんですが、その全体像はあらかじめ想定していたんですか?
野口:半分くらいですかね。『botto』よりもっと曲ごとにフォーカスしようとは思ってました。
──通して聴いて、おそれがないなと率直に思いました。作ってる音楽が何であろうが自分から出てきたものならかまわないというか。でもそれぞれすごく研ぎ澄まされているから、曲だけ聴いていたらすごく突き詰めて考える怖い人かなとも思ってたんです。
野口:めっちゃ優しいですよ(笑)。
──それってつまり、作っている音楽、やっている作業に対する判断がすごく速い人なのかなという印象だったんです。正解か不正解かではなく、速くやる。
野口:今回はすごくスピーディーでした。ファーストのときも早かったかな? ただ、ファーストの作業を経て、全部速ければいいってもんじゃないんだなとも思ってました。速ければいいところもあるし、ちゃんと時間をかけたほうがいいところもあるという当たり前のこと。意識しないと判断が速くなりがちかもしれません。
──曲としての完成形のジャッジが特徴だと思ったんですよ。判断の速さが音楽にも宿っていて、難しそうな曲でも、スパスパと早口でしゃべっていく学者さんの話を聞いてるような快感がある。曲名もそんな感じじゃないですか。詩的と思えるものもあるし、記号だなと思えるものもある。でもそこに迷い箸があんまりない。
野口:個人的には、今回の『藤子』への周囲の反応は、「いいやつが多いんだな」という感じでした。
──え? それはどういう?(笑)
野口:「『botto』にあった『わりとひょうひょうと何でもこなす天才』みたいな可能性が、『藤子』だと野口文は決してそういう天才じゃないというがアルバムを通じて端的に表していて、いい」って言われました(笑)。ちゃんと「うまくいかない」とかいうところもあるんだなと。自分としては複雑ですけど、めちゃうれしかったです(笑)。『botto』が出来のいい弟だとしたら、『藤子』は要領の悪い兄ちゃんみたいな感じなんです。だから『藤子』は良いアルバムだとは思ってるんですけど、自分としてはダメなところも全部出てるからまだ直視したくないという印象なんです。
──その感覚はわかります。『botto』には、スーパーヒューマン的なというか、対AI音楽みたいな要素を考えてしまう部分もある。『藤子』はAIだったらこっちは選ばないよなという音楽をやってる気がします。
野口:『藤子』では悩む場面も結構あったんですよ。どの曲かというよりは、アルバム全体の構成、方向性に悩みました。アルバムに入らなかった曲もいくつかあって、「これ『藤子』でやる意味あるのかな?」みたいなことを腕組んで考えたりしてましたね。ポストプロダクションの時点でもそれは考え続けていたんですけど。
──参加ミュージシャンはみんな大学時代の仲間と言ってましたよね?
野口:うまいというより「これしかできない」みたいな人を呼んだかもしれないです。輝ける場所はどこなのかを探して演奏してもらったというか。
──そういう意味ではバンドっぽいアルバムでもある。
野口:そうかもしれないです。