COLUMN #2 どれだけひねくれてエキセントリックなことをしていても、まっすぐに届く
Text by つやちゃん
水曜日のカンパネラの魅力は、まっすぐなところだ。どんなサウンドも、どんな歌詞も、どんなビジュアルも、詩羽の素直で飾らないキャラクターが全てをまっすぐにしてしまう。その才能はとてつもなく稀有なものであって、唯一無二と言っていい。
まず、水曜日のカンパネラのビートは、エキセントリックだ。そもそもジャンルの統一感が全くない。プロデューサーのケンモチヒデフミが好奇心のままに引用するのは古今東西のあらゆるダンスミュージックであり、たとえばイントロのレゲエから軽快なハウスの四つ打ちへ進展する「エジソン」も、清涼感を醸し出すジャングル・ビートの「マーメイド」も、2ステップのリズムを継ぎ接ぎする「赤ずきん」も、ハイパーポップ風のエディットで遊ぶ「鍋奉行」も、手を変え品を変え飛び道具的なビートが繰り出される。ライブではベースミュージックとしての側面が強調されかなりヘヴィな質感になるものの、音源ではある程度低音が抑制されており、だからこそ中~高域に集中する忙しなさが落ち着かない“わちゃわちゃ感”を生み出している。
そして、歌詞も同様にエキセントリックだ。多くの局面において大胆にも意味を捨て去り、音に振り切った言葉遊びの群れを並べ押し通すスタイルである。ゆえに、サウンドに奉仕した歌詞はとにかくリズミカルで、パズル的な遊戯性が感じられる。「エジソン」の「踊るエジソン自尊心」というラインに代表される通り、韻から逆算して作ることに対するあっけらかんとした開き直りが徹底されており、ここまで“意味のなさ”を追求する態度はラディカルですらある。
さらに、ビジュアルもエキセントリックだ。詩羽自身は衣装やメイクにおいて「POPでKawaiiくて違和感がある」ということをテーマに置いている。確かに、スタイリストの石橋渼沙やhao、久保田姫月、ヘアスタイリストのイシわタ美サきによって完成されるルックは<POP>も<Kawaii>も<違和感>も込められてはいるものの、跳ね上げたキャットラインはサイバー感が香り、カラフルな柄使いはサイケデリック。いくつもの印象がデコラティブに組み合わされており、ユニークなことこの上ない。
けれども、サウンドも歌詞もビジュアルも奇抜でありながら、水曜日のカンパネラの楽曲はまっすぐなものとして聴こえる。これは通常ではあり得ない、かなり特異なことである。水曜日のカンパネラのような表現は、たとえポップミュージックとして届くことを目指していたとしても、実際はオルタナティブミュージックに近い感触で届いてしまうようなものだからだ。事実、前体制ではそうだったし、もちろんそれは悪いわけではない。ただ、奇抜な表現というのは往々にして本流に対してのカウンターであり、社会規範への反抗であり、あるいはアーティスティックな個性の追求であり、それらが世の中に影響を及ぼしていくことでの自身の承認欲求の満足を目指しているからこそ、いわばカリスマ的な支持を獲得することで結果的にポップミュージックに「なって」いくものなのである(実体としてはオルタナティブ・ミュージックであったとしても)。一方で、詩羽がジョインして以降の水曜日のカンパネラはそういった態度がほとんど感じられず、ただただ無邪気で、時にいたずらっ子としての詩羽の遊び心だけがストレートに伝わってくることで初めから純粋にポップミュージックとして聴こえる。奇跡だ。
大きな要因の一つに、詩羽のすっきりと通りやすい声質があるだろう。前述の「エジソン」では特に活舌よく伸びやかな歌唱が聴けるが、その声は非常にクリアで、人懐っこく伸び伸びとしたキャラクターが透けて見えるようだ。どこか幼さを感じるが、それが未完成で未熟な印象を与えるわけではなく、子どもの持つ無邪気で創造的な可能性を持ったものとして伝わってくる。だからこそ詩羽は何でも思ったことをずばずばと言いそうな気配もあるが、笑顔で楽しそうで擦れていなくて愛があるから、嫌味がない。どれだけひねくれてエキセントリックなことをしていても、まっすぐに届く。そして、ケンモチヒデフミはそんな詩羽の魅力を最もよく理解しているはずだ。過剰なエフェクトにおいても決して汚されず、澄んだまま加工される「鍋奉行」の詩羽のボーカルを聴くとつくづくそう思う。目一杯の奇抜な手が尽くされている今の水曜日のカンパネラにおいて最も重要なのは、詩羽の無邪気さであり、愛嬌であり、まっすぐな笑顔であり、それをすべて分かっている良き理解者たちなのだ。
