誰かがこれを聴いて何かを感じる、ということが大切
──なるほど。『視線』のころからミゾベさんが書く歌詞が変わってきたという話ですが、曲 / サウンドの方はどうなんでしょう。
森山 : サウンドは、明確にここで変わったという自覚はなくて、日々変わり続けているものだと思っています。ただ、音楽を作るときの価値観とか、なんで作るのか、みたいなことを日々共有はしてるんです。なので『視線』のときにミゾベが切り替わったというのは感じてます。まっすぐ向き合うがゆえに(ミゾベと)ぶつかっていた時期でもあるんで、そこで変わったんだろうなと理解しつつ。
──どういうことでぶつかったんですか。
森山 : ……音楽をやる意味があるのか、とか。表現することに対する覚悟とか、表現するべき理由があるのかとか。そういう話をずっとしてましたね。一人の音楽好きとして、こういう音を作りたいというのはもちろんあるんですけど、それは「手」の部分じゃないですか。作業というか技術の部分。それよりももっと根本のことを話していました。表現することってすごく人を傷つけることでもある。人はいつも誰かを傷つけながら生きている。にも拘わらずなぜそれを表現するのか。なぜこの言葉を発するのか。そういうことにそれなりの責任を持たないと、カッコいいとは思えない。そういうのを無視して表現し続ける人にはなりたくない。そういったそもそも論みたいなこととか哲学的な話をあえてして、できる限り共有しようしてきてる。それはそのときだけじゃなくて。
ミゾベ : 常にしてる。
森山 : それはふたりがひとつの作品を作るからっていうのが根底にありますけどね。
ミゾベ : 僕はもともと話したりすることが苦手で。こんな気持ちで作りました、みたいな話が全然できなかった。音楽を聴いてもらえばわかるでしょ、と思ってたんです。僕がひとりで歌詞も曲も作っていたんだったらそれでもいいかもしれないんですけど、森山と一緒に作ってるわけで。そこで森山に対してちゃんと話せないようなら、表現したいものがないと思われても仕方ないんじゃないか、という話から始まって。そこでいろんな問いかけがあって、自分のなかにほんとにあるのかな、ってまず思ったんですよ。
──「ほんとにあるのかな」とは、「表現したいものがあるかどうか」ということですか。
森山 : 表現したいものがあるかっていうよりは、表現したい理由があるか、みたいなところですね。僕とミゾベでひとつのものを作らないといけないから、ミゾベの歌詞は僕の表現でもあるんですよ。僕の曲はミゾベの表現でもある。だから、なぜふたりで作っているのか、ということももちろんそうだし、そこに嘘を残したまま終わらせてはいけない。なんとなくの感覚でナアナアのまま進みたくはなかった。だからそのタイミングで言語化して、できる限りお互い近づこうとしたんです。
──お互いが表現する根幹みたいなところまで踏み込んで、ちゃんとわかりあえないと、曲は作れない。
ミゾベ : そうなんですけど、でも根幹までわかりあえるとは思ってない。
森山 : そう、思ってない。
ミゾベ : 2018年の『往来するもの』の“GREEN”って曲を作ってるときがたぶん、そういう哲学的な話をしている時のピークで。他人同士だから、絶対にわかりあえることはないって知ってしまったんです。森山とのそれは家族と同じぐらいとも言えるんですけど、でも絶対的に違う人間なんです。それまでは一心同体とか阿吽の呼吸みたいな「伝えなくてもわかる」ことをを信じてやってきてたんですけど、違うってわかった。でもだからこそ、見えてないからこそ、信じるしかなくて。信じさせないといけないじゃないですかお互いに。
──お前のことはわからないけど信じる、と。
ミゾベ : 曲を一緒に作れるレベルでは信じられないと、曲を作れないので。なので、信じさせてくれよと。
──リスナーに対しては? 自分たちのことをリスナーにわかってもらおうとは思わない?
森山 : 思ってないですね。何かを伝えたいわけじゃない。マニフェストがあって、こういう世界だったらいいよね、連れて行くから付いてきて、みたいな曲でもない。とにかくこの世にあるものでホンモノは、自分がどう思ったか、ってことだけだってわかってるんです、僕らは。ここに紅茶があることが本当なんじゃなくて、紅茶があると僕が思っていることが本当、みたいに。すべてはそうで、作品を作るときもそうなんです。ミゾベがどう思って書いたかを僕がわかろうとするんじゃなくて、僕がミゾベが書いた歌詞をどう思ったか、を僕自身がわかろうとしないと。僕は音楽に限らず、そう思って過ごしている。そういう「なにを思ったか」「自分が思ったこと」がこの世に増えていけばいい。その作業を続けていければ幸せなんですよ、僕たちは。だからこうやってなにかを表現することに喜びを感じられる。それで誰かをどうしたいとか、こう思って欲しいとか、ではなくて、誰かがこれを聴いてなにかを感じる、ということが大切。そういう意味で聴く人が増えるなら、それは嬉しいことです、もちろん。
──何かを感じてくれる人を増やしたい?
森山 : もちろん増やしたいと思ってます。でもそれは作品自体でやることではなく、出来た作品をもって、たとえば、会社の力を借りるとか、SNSでできることはないかとか、そういうことは努力します。でもその努力を作品を作る時に考える必要はないと思ってます。作品は作品として、その時に正直に作りたいものを作ることが、商業としてはどうかわからないけど、人間としては正しいしナチュラルだと思います。

──聴きやすくするための工夫であるとか……平たく言えばポップにするとかキャッチーにするとか、そういうことは考えない?
森山 : 考えはします、もちろん(笑)。ただ、そっちが先にないってことなんですよね。たとえばodolは日本語の歌詞ですけど、あえて日本語にしようって決めてたんですね、odolを組む前から。でもそれは伝わりやすくなるからじゃなく、日本語じゃないと嘘になるから。英語圏で生活してないから英語のニュアンスはわからないし英語の思考回路なんてない。当時僕らの周りは英語で歌ってるバンドだらけだったんですけど、そこであえて日本語で歌う理由は、日本人に伝えたいからじゃなくて、自分たちが嘘なく表現したいから。ほかのいろんな選択をするときも、そういう順序でやれればいいなと思ってますね。
──嘘のない表現、というのは確かに今作のミゾベさんの歌詞を見てそう思いました。曲はどんなことを考えて作ってますか。歌詞に比べると技巧的な面が出やすいと思いますが。
森山:純粋にバンドあるいは自分自身の曲として作る時は、あらかじめ「こうしよう」というプランから始めるんじゃなくて、たとえばある音を出しながら、これにフィットする和音はなんだろうとか、この響きだったらいいとか、自分で手を動かしながらだんだんと聴きたかった音に気付いていく。そこからまとめていく感じ。タイアップだと、監督と打ち合わせする過程で、ストリングスの音を入れましょうとか、こういう楽器編成にしたいとか会話する時はありますけど、そういうのが全くない曲──今回なら“未来”や“独り”だと、そういうことは一切考えず、音を出しながら手探りで作っていく感じなんです。