対談 : ミト(クラムボン)x 竹中直純(OTOTOY)──OTOTOYの15年と日本の音楽配信 前編「その黎明期からハイレゾまで」
OTOTOY 15周年特別企画

OTOTOYは2024年10月20日をもって設立から15周年を迎えました。本記事は15周年特別企画として、クラムボンのミトを招き、OTOTOY代表取締役の竹中直純との対談を前編、後編に渡ってお届けします。OTOTOYのハイレゾ配信はクラムボンの作品からスタートしました。正確にいえば、OTOTOYの前身となる配信ストア、recommuniにて、2009年の6月10日に配信スタートした24bit/48kHzのフォーマットのクラムボン「NOW!!!」がその最初となります。続くアルバム『2010』のハイレゾ配信なども含めて、まだ「ハイレゾ」という言葉のなかった時代に、その音楽体験の価値を信じて、CDを超えるデジタルの高音質配信をクラムボンとともにスタートしました。本記事では、そんなOTOTOYの転機となったクラムボンとのハイレゾ配信も含めて、OTOTOYの15年、さらにはそれをとりまく日本の音楽配信の歴史を振りかえります。 そのなかでOTOTOYはどのような理念で運営してきたのかを明かすとともに、アーティストから見た音楽配信のシステム、現代にいたるまでのその問題点や希望など、さまざまなトピックを展開しています。今回取材時にも資料としても参照した同時公開の年表記事『年表 : OTOTOYの15年と日本の音楽配信史』とともにお楽しみください。
本記事同時公開『年表 : OTOTOYの15年と日本の音楽配信史』を参考にぜひご覧ください
特別対談 : ミト(クラムボン)x 竹中直純(OTOTOY代表取締役)

インタヴュー・構成 : 小野島大
写真 : 大橋祐希
──編集部が用意してくれた日本国内に於ける音楽配信のざっくりとした歩みとOTOTOYの歴史の年表があるんですが、クラムボンの歴史もそれに加えてお話できればと思います。1995年の11月に行われた坂本龍一さんの武道館コンサートが、日本に於けるインターネットを通じての初めての生音楽配信(編注1)ですが、竹中さんが手伝ってらしたんですね。
竹中 : 僕がディレクターでした。僕が坂本さんに「こういうことがインターネットでできますよ」と提言したんです。坂本さんがインターネットの出現にすごく衝撃を受けていて、これでなにかできないか? というタイミングが1995年の8月とか9月だったんですよ。当時、インドの村井純さんみたいな人(笑)……カール・マラムッド(Carl Malamud)さんという方からの、1996年に開催予定の〈インターネット・エキスポ〉に日本からなにか参加して欲しいという要請が、当時の日本のインターネット研究者のコミュニティに来ていて。なにかコンテンツを探さなきゃ、となったその日にちょうど坂本さんと初めて会ったんです。そこで「インターネットでライヴやりません?」って言ったら「やろう」って、その場で決まって。ライヴの11月30日まで2ヶ月ぐらい、本当にもう死ぬほど働いて実現できました。だからそのコンサートの配信も、WIDEプロジェクト(編注2)が結構大きなパワーをもっていて、リソースを出してくださったんですよね。
編注1 : 『三菱電機ス-パ-セレクション 坂本龍一ツア-’95D&L with Daizaburo Harada』のストリーミング中継に関する解説が現在も以下のページにて残っている。http://www.kab.com/DandL/netLIVE/home.html
編注2 : WIDEプロジェクト : 日本を拠点として1988年に設立された、産官学組織と共同でインターネット技術・標準・社会に関連する研究を推進する、グローバルな研究コンソーシアム(公式WEBより)。https://www.wide.ad.jp/
ミト : そのときって竹中さんでおいくつで、なにをやってらしたんですか?
竹中 : 27歳かな。当時はJTにいました。ちょうどタバコのテレビ/ラジオCMが規制されていた時代で、広告の出稿先としてインターネットという新しいメディアが出てきたんで、広告としてどう使えるのかをコモンセンスにしたい、ということでJTのなかに研究所ができて、そこに雇われたんです。だからJTがスポンサードしているF1のインターネット中継なんかを手がけてました。
──なるほど。で、同じ1995年に原田郁子さん、伊藤大助さん、ミトさんの3人が専門学校で出会って、クラムボンの原型となるバンドを始めた。
ミト : そうですね(笑)。
──無理矢理こじつけると音楽配信の歴史とクラムボンの歴史はほぼ重なっているという。
一同笑
ミト : そういうことにしておきましょう。Windows95の出現とかではなく(笑)。
──竹中さんとしては坂本さんのライヴ配信を手がけて、なにか可能性みたいなものを予見しましたか。
竹中 : ライヴ配信に関しては、いまでもそうですがレコードやCDで聴いている音と聞こえる音楽が違うというのはすごく自覚させられて。今でいう音楽配信の可能性みたいなものはまだ感じられなかったですね。権利処理も今後大変になるだろうなという予感はありましたが。だけど、その場のライヴ感をそれぞれのデスクトップに運んでいくというような感覚に対する可能性はすごく感じましたね。まだ音質も悪いし画面も小さい。原始的なものでしたけど。当時中継を見てたのはほとんどが研究者でしたが、30秒遅れくらいでジュネーヴでもテルアビブでも、世界中の研究所や大学にちゃんと届くというのは、当時のテレビの衛星何元中継とかをはるかに超える興奮を覚えましたね。
──音質・画質などは技術的な面が進歩すれば当然解決に向かうし、タイムラグもリアルタイムに近くなっていく、ということは予感できました?
竹中 : それはできましたね。当時はローリング・ストーンズが世界で初めてそういうライヴ配信をしたっていうことが割とニュースになっていた。でも日本国内で言えばまだインターネットも一般には普及してない時代で。だけど「坂本龍一」とか「武道館」という言葉が入ることによって国内にも広がるという。そういう衝撃はあったと思います。その後、1996年、1997年と坂本さんのライヴ配信をアップグレードしていって、ISDNが普及してきたこともあって、数百人規模ですが、そうしたライヴ配信のチケットもちゃんと売り切れるようになった。だからまだまだ少ないですが需要があるんだなというのは感じられました。
ナップスター登場による違法MP3問題と音楽のデータ化

──なるほど。ただもっと一般的に音楽配信のリアリティと可能性を身近に感じたのは、私の感覚だと1999年ごろの『ナップスター』(編注3)だと思うんですよね。
竹中 : 違法のほうですか?
編注3 : Napster : 1990年代終わり頃、特に音楽ファンの間で流行したP2P方式のファイル共有サービス / ソフト。P2Pとは、ネットワークに接続されたPC同士を対等に結び、直接通信する通信方式。このネットワークを通じて、大量に違法コピーされたMP3ファイルが出回り問題となった。後にレコード業界の訴えによって、裁判所の命令でサービス停止。その後、商標は別の音楽配信会社に買い取られ、合法の音楽配信サービスとなった。詳しくは同時公開の年表記事、もしくはその顛末を描いた書籍、ウィット『誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち』などで。
──そうです。その頃はまだダイヤルアップでつないでいて、例えばヨーロッパのクラブやレイヴで隠し録りされたDJミックスとかをすごい時間をかけてダウンロードして聴いていた。まだウチのハードディスクの片隅に残ってると思うんですが。48kbpsとか、そんな音質で。
ミト : (笑)それ下手したらFMより音悪いですね。
──でも当時はインターネット回線を通じて、まったく見も知らぬ人と直接繋がって、日本では入手しようもないアンダーグラウンドな音源ファイルを交換することがめちゃくちゃ面白くて刺激的だった。インターネットで世界の壁がなくなるとか、そういうことが身近なリアリティとして感じられました。1999年にクラムボンはデビューするわけですが、インターネットとの関わりのようなことはどう考えてました?
ミト : 僕らはデビュー前に自分たちのウェブ・サイトを作っていて。当時の自分たちは配信とかそういうことよりも、BBSとチャットを使ってファンの人たちと直接コミニケーションをとるというようなことをやっていたんです。結構僕らは早いほうだったと思う。アーティストが直接チャットに参加するって当時でも結構珍しくて。と言っても他の2人は基本的にやらないので僕がやっていたんですが、まだ珍しかったのもあって、すごく小さい範囲でしたがバズがありました。当時のワーナーの青山の事務所でずっとチャットをしてましたね。
──ファンの人とずっと。
ミト:そう。だから、インターネットによってコミニケーションの幅が広がったということが先行していて。
竹中 : 1999年といえば、当時、MAA(編注4)の活動のなかで鈴木慶一さんのムーンライダーズが新曲を出して、当時の全部のコーディックで音質を聞き分けるためにフリーで配るというのをやっていました。「Piss In Online」っていうふざけた名前と歌詞だったんですけど。当時1000人以上がダウンロードしました。(編注5)。
編注4 : 「メディア・アーティスト協会(Media Artists Association:MAA)」、坂本龍一、佐野元春らが発起人となって1999年に発足。インターネットなどデジタルメディアでの著作権のあり方などをアーティスト自身が理解、意見を発表していくことを目的に設立された。 2000年5月に解散。
編注5 : 「新曲「Pissin'till I Die」と「Pissism」の2曲が配信される。これらの曲はCDでの発表は予定されていない。配信実験用のページでは、この2曲について、MP3、RealMedia、TwinVQ、Windows Media Audio、MP4AAC、ATRAC3の各フォーマットで提供する。特にMP3では、IIS、LAME、Xingの各エンコーダーによって作成された音源」INTERNET WATCHニュース記事『ムーンライダーズとMAA、新曲で音楽配信実験を開始(1999年11月19日)』より https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/1119/moonr.htm
ミト:当時のダウンロードで1,000人って大きいですね。
──当時の回線だとすごい時間がかかりそうですね。
ミト:圧縮のエンコードのどれの音がいいかって調べてたというのは、早いですよね。
竹中 : 当時はフリーのエンコーダーがいくつかあって、CDをリッピングするのに何を使ったらいいのかわからないという状況だったのをテストできるように指針を示すというのが技術側の目標で。慶一さん側は「おもしろいからやろう」って一緒にやってくれて。
──なるほど。2001年になるとYahoo! BBとかブロードバンドの普及で、インターネット回線が常時接続になっていく。一方で携帯電話の着メロサービスが急激に伸びて、音楽配信のプラットフォームがPCよりも携帯中心になるという日本独自の展開がありました。クラムボンは2002年に3作目『ドラマチック』をリリースしてますね。
ミト :インターネットとは絡みがなさそうですが(笑)。2001年ごろに配信とかデータ化みたいな発想はなかったですね。なかったから、逆に『ドラマチック』のマスタリングのときに、可能な限り音を大きくしたのかも。恐らく自分たちのアルバムのなかで一番音が大きかったと思いますね。日本でナンバーワンにビット・クラッシュしまくった音源だと思いますよ。
竹中 : いわゆる「海苔音源」(編注6)ですか?
編注6 : 音圧が常時上限を振り切って、データの波形が焼き海苔のように見える音源。
ミト :そう、わざと「海苔」にしたという感じで。そこを狙ったわけではなかったんですが、ギターのいないバンドなんだけど、ギター・バンドよりも大きな音のアルバム出したらみんなびっくりするだろうっていうのがあって(笑)。バッチリ目一杯(音圧を)突っ込んでるから、圧縮しようがどう処理しようが、その音のアイディンティは変えようがなく保ててるというのは幸か不幸ありますけどね。
──翌年には『Re-clammbon』というセルフ・リアレンジ・アルバムを出してます。リアレンジの「Re」とインターネット用語の「Re」を掛け合わせたタイトルが新鮮だった。
ミト : クラムボンはライヴ主体のバンドだったんで、ライヴすればするほど元のアレンジから逸脱していく。その変化を届けるのにアルバムしかないとか、ライヴしかないとかだとラグがすごすぎるので、そのラグをどうにかしたいという救済策がたまたま、あのリアレンジのコンセプトだったんです。あとは場所、僕らはライヴ・ハウスでやらなくても、ミニマルなインストアみたいなところでやっても楽曲のクオリティが減るものじゃないというのを証明したかったという。
竹中 : 当時のインターネットに明るい音楽家の人たちが試したことのなかに、制作途中にどんどんヴァージョンをあげていく、ということがあったと思うんですよ。でもそれはファンがついていくのが大変なんです。当時のクラムボンは、そういったことをオフィシャルでやった。これがいまのヴァージョンですって提示してくれているのが良かったんだと思います。そういう安心感みたなものを僕は覚えてますね。
──カニエ・ウエストはサブスクでダマテンでやっちゃったけど。
ミト : 当時は「テープ・ツリー」というのもやっていて(編注7)。あれはグレートフル・デッドのライヴがテーピングされてすぐにカセット・テープで出回るという状況に対して、同じようなことを自分たちのバンドでできないかなと思ったんです。ただし権利上の問題もあるので、CDで出してるオリジナル曲ではできない。結果ジャム・セッションを録音してもらうってところに落ち着きましたけど。そのあたりで権利回りも意識し始めたかもしれません。
編注7 : テープ・ツリー : 2000年代中頃、クラムボン3人によるライヴ・セッション=クジャムボンをファンが録音、その音源をファン同士が金銭のやりとりなしにトレードするというファン同士のコミニケーション・システム。ネット・オークションに音源が出回り中止に。以下のインタヴュー記事でも言及。
──音楽業界で権利回りを意識しだしたのっていつなんでしょうね?
竹中 : やっぱり(違法時代の)ナップスターが大きいと思う。「音楽は無料であるべきだ」とある種の過激な思想がナップスターというツールを背景に広がっていった時代でもありますから。「でもそれだと音楽家が食べれなくなる」という意見はすぐに出てきて、アメリカでは裁判で潰されて、そこで一旦落ち着いたと。権利の大事さにみんな気付いたというか。
ミト : ミュージシャンって、より多くの人に聞いてもらいたいという欲望はいつでもあると思うんですけど、それに生活が伴うか伴わないかは死活問題としてある。それまではいわゆる盤で出してたけど、どういう形態に変わろうとも、それでしか届けられなかったというジレンマはどっかしらあったんじゃないかなと。
CCCDとオフィシャル・ダウンロード・ストアの登場

本記事同時公開『年表 : OTOTOYの15年と日本の音楽配信史』を参考にぜひご覧ください
──2002年には「着うた」がスタートして、日本の音楽配信は携帯電話を主なプラットフォームとする時代が到来しました。それと同時に各社がコピーコントロールCD、いわゆるCCCDを出し始めるのもこの頃です。
ミト : ミュージシャンにとってみたら悪夢中の悪夢でした。
──当時のCCCDはいまリッピングもできないですからね。現在も禍根は残っている。
ミト : ナカコーくん(中村弘二)がすごいキレてたの覚えている。
──自分も苦い想い出があって。自分がプロデュースした『Fine Time』(2004)っていう、クラムボンにも参加してもらったニューウェイヴのトリビュート・アルバム。たまたまソニー版CCCDのレーベルゲートCDの第一回リリースになってしまって(苦笑)。さんざん叩かれたのをよく覚えてます。
ミト : あれがそうだったのか……。
──2003年にiTunes Storeが海外でスタートします。2004年になるとmoraがはじまり、recommuniという名前でOTOTOYの前身がスタートしました。
竹中 : 当時現れはじめた他のダウンロード・ストアが、Appleも含めてまだコピー・コントロール(DRM)が付いたデータを売っていて。それはおかしいだろうと。そのもともとの考え方は、P2P時代の違法ナップスターがトラウマになって、ユーザーは悪であるという考えでレコードメーカーが保守的な考えになっていたのを、お客さんは音楽が好きな善人なんだという「性善説」を基本にして音楽配信をスタートさせたのがrecommuniですね。でも当時、ちゃんと自分たちの意志を説明して賛同してくれたレーベルやミュージシャンはいわゆるインディで、メジャーにはまったく相手にされないというところから、確か500曲とかそういうところからのスタートでした。
──2004年に着うたフルが始まり、2005年にはe-onkyoや日本版iTunes Storeがスタート、その頃が日本に於ける音楽配信元年と言われてます。前身のrecommuniがインディしかない状態から、OTOTOYと名前を変えつつ20年も続けているのはすごいですね。
ミト:高橋健太郎さんはその頃から関わってたんですか?
竹中 : 初期出資者のひとりということだと思います。recommuniは2008年に一旦経営が破綻しかけて、三野(明洋)(編注8)さんが株式を一旦みなさんから集めて整理して、僕のところに相談にきたんです。僕の方針に従ってくれるのであれば引き受けますよ、という。recommuniからOTOTOYになるのはその1年後の2009年です。そこから今年で15年、ということです。
編注8 : 三野明洋 : recommuni出資者のひとり、コロムビア、音楽出版社などを経て、2000年にイーライセンスを設立(JRCと合併し、現在の名称はNexTone)。
──recommuniで印象に残っているのは、ユーザーが配信してほしい音源をリクエストすれば、原盤を持っているところに交渉しにいって、recommuniが許諾をとって配信をするというシステムですね。自分も当時廃盤だったヤマジカズヒデ(dip)のソロ・アルバム、北村昌士の〈SSE〉から出てたやつをリクエストした覚えがあります。でも何の音沙汰もなかった(笑)。
竹中 : 当時の福岡(編注9)さんは真面目にやってたはずなんですが(笑)。福岡さんはいまは引退されてますが、下北沢で〈いい音爆音アワー〉を定期的にやっているみたいです。
編注9 : 福岡智彦、recommuni設立時の代表取締役。
ミト : 爆音といえば、一時期〈ハードコア・クラシック・チューンズ〉という爆音でクラシックを聴くイベントを中目黒のバーで友人とやっていたんです。高橋健太郎さんとはそこで懇意になったんですよね。窓全開で、JBLのそこそこでかいスピーカーで、100㏈ぐらいの爆音でクラシックを聴くというイベントをやっていて(笑)。
──でもそれはデジタルで?
ミト : そうですね。まだDSDもなかったのでPCMの、今で言うハイレゾですね。
──アナログと違ってハウリングもしないし、ハイレゾだから爆音で再生できるってことですね。
ミト : MP3だったらデジタルでも音量あげたらひどいジッター・ノイズが出ると思うし。そこでハイレゾの良さを認識したんです。
──それだけデジタルの音源のカタチが変化していた時期ってことですね。2007年~2008年は海外でSoundCloudとかBandcampがスタートしています。
ミト : ちなみにMySpace(編注10)はいつなんですかね?
編注10 : MySpace : 2000年代後半に大きな勢いを持ったSNS。写真やテキストの他に、自らのページにMP3データを最大10曲まで登録できたため、ここでの楽曲アップロードが、その後の音楽キャリアの足がかりになったアーティストも多数いた。
──もう少し前で2003年みたいですね。
ミト:ある種のデモ状態の楽曲をカジュアルに提供できるようになったのがMySpaceの出現ですよね。
竹中 : そうですね。
ミト : 実はそれが僕のなかであまりピンと来なかったんですよね。さっき竹中さんがおっしゃった、音楽をプロットの段階であげることでリスナーに委ねるみたいなのって、ミュージシャン的にはどうなんだろうって思っていて。当時の『ミュージックマガジン』でも、MySpaceを使って、リスナーに委ねるみたいなことをやっていると、ミュージシャンとしてアイディンティが破綻しないんだろうかと言った覚えがある。
竹中 : 若いミュージシャンは、まだ自分の形がない状態で、MySpaceの機能をフルで使おうとしてデモとかいろいろ出てくるんですけど、ファン側はそこまで求めないんですよね。
ミト : 本来はそうだと思います。
竹中 : なんか(次々とアップされる音源を追っかけることが)義務化されている感覚になってしまって苦行、というファンの人たちも見かけて、本来の音楽家とファンの関係性じゃないなと思いましたね。
──MySpaceが衰退したのはそれが理由ですかね?
ミト : おそらくアーティストからはリハーサル場所として、そしてあの時代の承認欲求の集合場所にしか見えなかった。あそこから世に出た音楽というのもありましたけども。なんでもかんでも上げられちゃうっていうのは、はたして正しいのか、完成したものを届けていくことの方が丁寧なんじゃないかなと当時僕は思っていました。ただそれは当時の思いで、いまは違いますよ。いまはもっとSNS文化が広がって、どういう風に広げた方がいいかとかSNS文脈の話になってしまってる。基本的にSNSでは音楽のやりとりはしないほうがいい。
竹中 : 当時、フレンドスターとか「インターネット・サービスでこういうことができます」とか、GREEとかmixi(いずれも2004年~)とか日本にもSNSが出てきた頃で。コミュニケーションがまずはあって、結果的に音楽もそこに「コレいいよ」と口コミで伝え合うという行動が出てきた時代でした。ただし、音楽そのものがそこにあって、音楽を中心に話を広げていくというのは当時のインターネット・ユーザーにはなじまなかったと言う感じがあって。それは実はSNSでもあったrecommuniの失敗原因でもあると思うんですよ。褒める人もいれば、けなす人もいるようなことになるかなと思ったら、なにも起こらなかった。
──SNSって人が増えないとおもしろくない。recommuniは人がいなかったですからね。
ミト : そういうものを楽しめるようになったのは、日本だとニコ動が出てからだと思ってて(ニコニコ動画は2006年にサービス・スタート)。ニコ動はまたちょっと角度が別で「みんなが集まったグループでこういうことやろうぜ」というのを音楽だったり、動画だったりで共有していくサービスで、そこにはMySpaceのような個の存在ではなく、そこに集まってくるグループ内の人々が重要で。
竹中 : 一種の部活ですよね。
ミト : そうです。そういうところから生まれてくるグループだったり、ボカロだったり、そういうのはすごくリスペクトしているというか。
竹中 : なんか文化の創られ方がセットアップされたという。
ミト : その1~2年で変わった気がしますね。