50点の人間がいま、0点を許容しつつ100点を目指している
──確かに、今作は異色ではありつつも、同系のカラートーンの中には在るように思いますし、どちらもthe dadadadysらしさが伺える作品になっていると思います。先に『だ』についてからお聞きしますが、こちらは全体的にポップさがありますよね。
小池:そうですね。ロックを基盤にしつつ、そこからどれだけポップ的スパイスを入れられるか? というところを考えました。ポップすぎても、俺的にはつまらないので。
──そうしたポップさを持つ一方、1曲目の“(許)”を含めて、世の中に対する反骨精神や世間や大衆含めた他に対するフラストレーションというのは、作品の随所から感じられます。その感情は、楽曲制作の起爆剤になっているなと思いますか?
小池:実感としてあるからとか、そう思ってもらいたくて書いた訳では全くなく、ほぼ無意識なまま出てきたものではあるので、出来た曲を聴くと「ああ、自分はそう思っていたんだな」と思うことが多いです。やりたいことをやってみて、更にそれをおもしろくしていったら勝手に形になっているという感覚なので、そこに意図的なものがないんですよね。
──“(許)”にも繋がりますが、やっぱり世の中「まあいいや」で終わらせられないことや許せないことばかりだな、と?
小池::俺自身は、まあいいやで終わらせればいいと思っているんですけどね。でも、そういうユーモアやジョークって通用しないことが多いじゃないですか? なので、最後の方で仕方なく「やっぱよくねぇか」と付けてはいます。あとは、俺は許しているのに相手は許さないことが多いよなとも思いますね。だから、自分自身に対して、お前ももっと人を許せよ、とも思っています。そういった許容については、the dadadadysの曲作りにおいても通じるものかもしれないです。
──「許す」ということが?
小池:tetoをやっていた時は、シンプルに100点満点の良い曲を目指していたんですよね。どうすれば完成になるんだろう? どこで着地するのがいいんだろう? というような考え方でいたんです。でも、the dadadadysになってからは、0点なら0点でもいいやと思ったりもしているので、伝わりやすさに関しては以前よりも格段に上がったとは思っていますし、いい具合に力が抜けてはいるのかもしれないです。そのマインドの変化は、経年変化によるものが大きいと思いますけど。
──そのタイミングが、the dadadadysの活動期と重なったと?
小池:そうですね。いまは前よりも、より遊べるようになったんだと思います。あとは、考えることに疲れちゃったのかもしれないですね。そもそも俺って、考える側の人間だったっけ? とも思いましたし(笑)。思考を言語化するのとか苦手なので。でも、いまはそれでいいのかなとも思っています。

──でも、言語化をしないとなると、バンド間での意思疎通に影響が出ませんか?
小池:メンバー同士考えていることが似ているからか、特に問題ないです。yuccoは真面目で天然で不器用なところがあるので、彼女には色々とインタビュー的に聞かれることはあります。基本的にはそれをするのも面倒ではあるんですけどね(笑)。
──ははは(笑)。遊べるようになったというところで言えば、“あっ!”では、そこが歌詞に顕著に表れているなと思います。
小池:この曲で言っていることは、俺は全部真理だと思っているんです。生きる為に飯をくれ、とか、本当に本当のことしか言っていないというか。その上で遊んでいるというのが、この曲のミソかなと。
──この曲の歌詞では、「ただ世の中の平均点の価値に気付けないやつばっかで本当超ダリーな」ともありますが、その価値についてはどう考えているんですか?
小池:俺は自分自身を50点の人間だと思っているんですけど、やっぱり100点とか0点を取る奴って目立つし、そういうのって才能だとも思うので、羨ましくも思うんです。自分自身、そういう人たちが好きですしね。その上で、50点の人間がいま、0点を許容しつつ100点を目指しているし、俺にはそれができると思っているんです。まあでも、辿り着いても99点だとは思いますけどね。
