休止する前まで、自分自身のことを発信してこなかったんですよ
――ちなみにトップハムハット狂のソロ活動を再び始めたことで、音楽のスタンスは変わりました?
トップハムハット狂:休止する前まで、自分自身のことを発信してこなかったんですよ。だけどソロを再始動したことで、自分の思っていることをメインにリリックを書くようになった気がしますね。自分の思いとか考えを歌詞に落とし込んでしまいました。
――落とし込んでしまった(笑)。
トップハムハット狂:多分、活動休止をしたことで思いが溜まっていたんでしょうね。
――アーティストって最初に自分の考えや思いを吐き出して、それを出し尽くした後に、フィクションを歌うパターンが多いと思うんですよ。
トップハムハット狂:俺は逆でしたね。

――心境の変化には、何かきっかけがあるんですか。
トップハムハット狂:音楽をやっていくうちに、自分の言いたいことが出てきた。それをリリックに落とし込むのが楽しくなったんだと思うんですよね。
――表現の原動力って、最初は承認欲求だと思うんですよ。だけど、AOさんは後になってから自我が芽生えたんですよね?じゃあ、それまでのモチベーションって何だったんですか。
トップハムハット狂:何だろう?なかったわけじゃないけど、単純に曲を作るのが楽しかったんだと思いますけどね。そもそもFAKE TYPE.をやるまでは、自分の音楽がお金に結びつくこともなかったから。
――ある意味、趣味の延長だった。
トップハムハット狂:うん。だから自分から訴えたいこともなかったと思います。
――AOさんが24、5歳の時に音楽を辞めて電気屋に就職しようとしてたら、DYESさんが「辞めるのは早い。一緒に音楽で稼げるような活動をしよう」と誘った。それがFAKE TYPE.の始まりなんですよね。
DYES:身の回りで、一緒に音楽をやりたいと思ったのがAOだけだったんです。今まで音楽でお金を稼ぐ動きをできてなかったし、挑戦もしてなかった。挑戦しないで終わるのは勿体ないと感じちゃって「ダメでも良いから、一回本気でぶつかってみよう」と誘いました。
――最初の出会いって何だったんですか?
トップハムハット狂:ネット上の掲示板(Underground Theaterz)があって。そこに俺もDYESも投稿してたから、お互いに存在は知ってたんです。で、俺が地元・仙台を離れて上京した時、すでにDYES は東京で活動していたので、ちゃんと会おうって話になったのがファーストコンタクトでした。
DYES:初めて会ったのは20歳くらいで、何かのイベントだったよね。会う前から通話でコミュニケーションは交わしていたので、初めて会った感じはしなかったですね。
――グッと距離が縮まったのは、どのタイミング?
トップハムハット狂:「文」を作ったくらいかな?だから2010年とかですかね。
DYES:「一緒に曲を作ってみようよ」という話になって。いざやってみたら、すごい相性の良さを感じて。
トップハムハット狂:DYESとなら良い音楽ができると確信しました。とはいえ、こういう風に作るんだってスタイルも定まってなかったので、試行錯誤も交えつつ、今のスタイルに辿り着くまで右往左往してました。

――ライブはどこでやってたんですか?
DYES:普通にクラブだったりとか、インストアでヴィレヴァンツアーを回ったりしてましたね。
――シーンの中で、FAKE TYPE.と似た音楽をやっている人はいました?
DYES:いなかったと思います。世界中を見ても、俺らみたいな音楽をやっている人はほとんどいないと思う。
――珍しいスタイルだったにも関わらず、自主制作で作った1stアルバム『FAKE TYPE.』はすぐに完売。これは自信に繋がったんじゃないですか?
トップハムハット狂:んー……分からないですね(笑)。当時はお客さんのことまで意識できてなくて、とりあえずFAKE TYPE.としてちゃんとした作品を完成させることがゴールだったんですよ。その先のことまで考えてなかったですね。結果的にはすぐに届いてくれたのかな?ただ、すぐ後にRambling RECORDSの人が拾ってくれたのも大きいと思います。
DYES:あれは本当に良かったよね。元々「ビレヴァンでCDを売れたら良いな」くらいの気持ちでいたんですけど、そもそもビレヴァンでどうやって流通させるのかも分からない状態の時に、アルバムを出したらたまたまRambling RECORDSさんが声をかけてくれて。しかもアルバムリリース3日前とかだよね。
――へえ!
DYES:「ウチで『FAKEBOX』をリリースしないか?」と声をかけてもらえたので、自主盤から流通させるまでのスパンが短かった。すごい運が良かったですね。
――結成から良いペースで活動してきたと思うんですけど、2017年に活動休止したのはどうしてだったんですか。
トップハムハット狂:あの頃は「この日に曲を間に合わせて作らなくちゃ」って、焦りながら曲を作ってたんです。精神衛生的にも良くない状態になって「……もうFAKE TYPE.は嫌だな」と思っちゃったんですよ。
DYES:仕事感がすごい強くなってたよね。
トップハムハット狂:そうそう。マジで音を楽しめてない感覚に陥ってたので、一回辞めようと。でも解散は勿体無いから休止という形にしましょう、ってことで決まりました。
――どれくらい休むのかは決めてました?
DYES:そこまでハッキリしてなかったんですけど、休止している最中にFAKE TYPE.の名前が一人歩きしている様子を見て、どんどん意識するようになりましたね。だって、休止する前はYouTubeのチャンネル登録者が2万5千人くらいだったんですけど、休止してから10万人になったんですよ。それはデカイなとは思いますね。
――休止していたとはいえ、各々ソロで音楽活動はやってましたよね。DYESさんは、ぼくのりりっくぼうよみの「パッチワーク」と「Pierrot」のトラック制作をしたり、すとぷりの「STRIKE the PRISON!!」で作編曲をしたり、とにかく色んなアーティストに楽曲提供をしてましたよね。
DYES:言葉にすると、自分を見つめ直す期間でしたね。「自分は何をしたいのか?」を考えることが多くなって、やっぱり自分主体で発信することが楽しいんだなと気づいた。FAKE TYPE.の存在がデカイと思ったし、これが自分の一番やりたいことなんだなって。
トップハムハット狂:俺も自分磨きの期間だったと思います。ライブでMCをするとか、ライブ中に煽るとか苦手だったんですよ。でもソロになったら、一人でやらざるえない。本当に自分自身を高められた3年間だったんじゃないかなと思います。
――再始動が決まったのは、どのタイミングなんですか?
DYES:2年前の冬に2人で会って「そろそろ一緒にやるのはどうかな」って。
トップハムハット狂:俺もやりたい気持ちがあったし、DYES もそういう気持ちになっていたので「じゃあ、また一緒にやろうよ」と話しました。
――再始動一発目に「BEELZEBUZ」を発表しましたけど、これまでのFAKE TYPE.とは違う印象を受けました。
DYES:そうそう(笑)。今までの俺らっぽくない、変な曲を作ろうと思いました。「復活一発目でこれは尖ってるでしょ!」みたいな驚きを、ファンの方に提示できたんじゃないのかなと思いますね。