年表の作家性
──実は自分もメモ程度にマイ年表を作ってて本読みながら気になることがあると携帯のメモに打ち込んでいるので、実はここまでではないにしろ年表が好きという感覚はちょっとわかるというか。いくつか別の分野の本読んだりしてるとアジアとヨーロッパ、アメリカ、その他の地域も含めてそれぞれ地理的な時系列で語られる、もしくはさまざまな分野、例えば音楽関係の本とデジタル・テクノロジーの本だとそれぞれの時系列があるから、それぞれの事件の時間的な距離感がつかみにくいんですけど、年表だとそれができるというか。
そうですね。あとは時間の「間隔」といったらいいんでしょうか、昔のほうがやっぱり緩やかに感じ取れるというか、今はやっぱ詰まっている感じがしますよね。それは当たり前っていっちゃえば、当たり前なんですけど。
──年表の良い意味で軽さというかフラットさがあるかなと、ある種のストーリーではなく、ある範囲だけを集中的に見る時に便利。ある種の「史観」になってしまいがちな「ストーリー」よりかはもう少しフラットなのはありますよね。
歴史って基本的には「記憶の共同体」というか、例えばヒップホップの歴史とか、かつての太平洋戦争の歴史とかも、それを記憶しているひとたちが、それぞれ語ったり、もしくはその後の人は調べていったりすることで、ひとつの共同性を作るということだと思うんです。そうするとそれはひとつの物語になるんですよ。で、その物語に対して、「それは違う」「これは違う」みたいな感じでどんどん更新されていくわけですけど、年表にはそれがないというか。だから(起こった出来事が)完全に生の状態で置かれているので、どう調理することもできるから、それは見る側に委ねられている感じですね。
──もちろんフラットさというところでは、掲載している情報の取捨選択はあるので、シンプルにそうだとは一概には言えないですけど、緻密になればなるほど、フラットになっていきますよね。
そうです。でも、例えばこれはスポーツの話とかあんまり載ってないですからね。確かに社会的に影響を与えたスポーツ・ニュースみたいなネタはあるはずなんですけど、そのへんは自分が見えてないところだと思います、もちろんスポーツの出来事に過剰な思い入れがある人だっていると思うんですよ。だけど、そこを外しているというところにひとつ自分の作家性とまではいわないですけど、作った人間の人間性が出るってことですね。興味のないものを生半可な気持ちで触ってみようという気持ちも良くないなと思って、バッサリ削ってしまったところもありますね(笑)。知ったかぶりするのも良くないなって。
──少し前にブログに書かれてましたけど、今回は 1968年というスタートの区切りがあります。わりと1968年は、学校の授業で習わないというか到達しない現代史の重要地点というか。歴史や社会思想史を考える上では、戦後の次に来る大きな区切りという感じはありますけど、いまの日本で普通に暮らしているとほぼ存在感ないというか……。
2021年から過去をみたときに、「直接繋がっている」といえる過去が1968年前後だと僕は思っていて。いろんな例を挙げられるんですけど、例えば環境問題だったり、マイノリティの問題だったり、そういう問題が初めて本格的に語られるようになったのがこの時期だったと思っているんです。さらにもうひとつが、例えば当時の象徴的な出来事として、学生運動があると思うんですが、結構よく言われる話ではあるんですけど、社会に対する異議申し立てのテーマがこの頃から変わっているんですよね。階級闘争──わかりやすく言うと金がないから、食わせろということを目標として政府に異議申し立てをするという──それを主張するのが、それまでの革命とか社会運動のあり方であり、大きな要素だったんですけども、フランスの五月革命を見ると、そこでの担い手というのは中産階級で学生で、食うに困っているというのとはちょっと違うんですね。それよりも既存のそれまでにあったシステムそのものを覆したいとか、より自由な社会というものを求めたいというのが主張のメインになってくるわけです。それは運動だけじゃなくて、当時起こっていた、ロックとか、カウンターカルチャーと呼ばれるものも同じような志向だった、と。で、今も基本的にはその枠組の中で、みんな考えているし、そういう状況下にあるとぼくは思っているんですよね。なのでスタートを1968年に。
──しかもだいたい50年という。
『ポスト・サブカル焼け跡派』の後ろについていた年表は、この年表の超簡略版みたいなものといえます。あれは1970年からスタートしていて。でも今回は、僕がこだわりすぎて、ちょっと2年伸ばして(笑)。50年のほうが切りが良いんですけど。
──「サブカルチャー」、といってもいわゆるいまの「アニメ」とかそちらじゃない方の「サブカルチャー」においては1968年がスタートになるのは定石といえば定石ですよね。今回の年表で1968年で「これは」っていうのはありますか? これとこれが同じ時期にあったんだみたいな。
ああ、それ結構聞かれるんですけど……おっしゃる通り、わりと1968年前後ってどのカルチャーも語られている部分があるので、年表に並べてみてはじめてわかる意外性はないんですよね。どのカルチャーもカウンター感があるというか。しいて言えば日本では『男はつらいよ』の映画第一作が1969年に公開されているんですけど、同じ月に「第1回全日本フォークジャンボリー」が開催されている、とかかな。『男はつらいよ』って、もっと昔っぽいイメージですけど、公開された時点で既に昔っぽい志向だったということなんですよね。そういうのもちょっとわかるかなというか。逆に結構最近のほうが、「え、ここ意外に一致しているんだ! 」みたいなことありますね。
──寅さんは、最後の平成期だけでなく、最初からすでに下町のノスタルジーの風景として楽しまれていたという。あとはよくシティポップとバブルの話とか、その距離感は実は全く本当の時代感とあってないみたいな。
ゴチャゴチャになっているんですよね。結構最近は、そういう雑な認識が加速しているなと危惧しています(笑)。
──そこも距離感というのはありすよね。自分の子ども時代はもろにバブルなんですけど(1980年代中頃〜1990年代初等)で30年前なんて、1950年代とか1960年代ですからね。当時の感覚を思い出しても「戦後」って感じで、ものすごい昔ですよ。ひるがえっていまとバブルの距離感が30年ですからね。そう思うと、距離感の遠さから間違えもおこるかなというか。でも年表だと冷静にイメージに左右されずに見れるというか。
そうですね、それはすごい意識していますね。例えばバブル、基本的に80年代って結構批評家的な人でも、「プラスティック・ラブ」な時代というか、乾いた時代みたいな言い方するじゃないですか、でも僕は「いや実は違うから! 」みたいに思っていて。「めちゃくちゃ生々しい時代だよ」みたいなのは、すごい込めましたね。例えば、「豊田商事会長刺殺事件」が1985年の6月で、同じ月に中森明夫の『東京トンガリキッズ』があって、BOØWYのデビュー・アルバムとか。80年代ってそういうチャラチャラしたものと、ロウなものというか、「ザ・昭和」みたいな生々しいものが同居している。この年表を見て、かなりごった煮的な時代でおもしろいなと僕は思っていますね。