2023/10/13 17:00

過去の再文脈化が駆動させるダイナミックで「新しいなにか」──書評 : 柴崎祐二著『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』

オトトイ読んだ Vol.17

オトトイ読んだ Vol.17
文 : imdkm
今回のお題
『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』
柴崎祐二 : 著
イーストプレス : 刊
出版社サイト
Amazon.co.jp


 OTOTOYの書籍コーナー“オトトイ読んだ”。今回は柴崎祐二による『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』。昨今の、まさにリヴァイヴァルでさまざまな切り口で語られる“シティ・ポップ”を緻密な歴史的事実から解明した『シティポップとは何か』の著者が、今度、そんなポップ・ミュージックにおいていくども繰り返される“リヴァイヴァル”そのものを論じている。さまざまな音楽のジャンルにおいて繰り返されるリバイバル現象を読み解き、果たしてそれが音楽において文化的になにを意味するのか? “オトトイ読んだ”、17冊目となる本作の書評は、本コーナーではおなじみのimdkmにお願いしました。(編)

過去を再文脈化するリバイバルによって駆動されてきたポップミュージック

──書評 : 柴崎祐二 : 著『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』──
文 : imdkm


 際限のないリバイバルの波に抗いがたく飲み込まれながら「新しいものはもはや不可能なのか?」とポップの未来を憂いた、サイモン・レイノルズの『レトロマニア:自らの過去に依存するポップカルチャー Retromania: Pop Culture's Addiction to its Own Past』が出版されたのは2011年のことだ。ご存知の通り、それから10年以上が経っても変わることなく次から次へとリバイバルは起こり、巷を騒がせ続けている。むしろ、『レトロマニア』が憂いた2000年代の状況を上回る勢いで「過去」は絶えず消費され続けていると言っていいかもしれない。2010年代なかばからの音楽産業の構造的変化や社会の激動も手伝って、『レトロマニア』は今から読めばいささか牧歌的とさえ思える。しかし、いやそれだからこそ、『レトロマニア』が提起した問いそのもの――あるいは、私たちは過去に囚われてしまったのだろうか? という不安――はいまだにアクチュアルに感じられる。
 そんな同書に刺激を受けて、2023年現在の観点からリバイバルという現象に向き合ったのが柴崎祐二『ポップミュージックはリバイバルを繰り返す 「再文脈化」の音楽受容史』だ。レイノルズがリバイバルにアンビバレントな態度でいるのに対して、柴崎はむしろポップミュージックという文化そのものが、過去を再文脈化するリバイバルによって駆動されてきたのだ、と見方を反転させる。この反転自体はきわめてシンプルかもしれないが、言うは易く行うは難し。というのも、それは「新しさ」を賭け金とする歴史観を離れ、別の歴史の語り方を模索するという、それはそれは大きなプロジェクトを開始することを意味するからだ。

実践のあり方自体が、読者にさまざまなヒントを与えてくれている

 各章はジャンルごとにまとめられており、ある種のジャンル史の集積の様相を呈しているが、ゆるやかにクロノロジーを構成しているようにも見える。どの章も資料の渉猟と丹念な掘り下げがなされる一方、コンパクトで堅実な書きぶりからの心地よくクリティカルな飛躍にはっとさせられる。
 個人的に興味深かったのは、たとえば 第4章の「レアグルーヴとヒップホップ:リスナーによる音楽革命」。DJカルチャー(クラブカルチャー)の起点をイギリスのモッズに置いてその歴史をたどりつつ、黒人DJがキーパーソンとして活躍したレアグルーヴを蝶番にしてイギリスのDJカルチャーとアメリカのヒップホップを同時多発的なアフリカン・ディアスポラの文化実践として読み解く射程の広さが刺激的だ。この章に限らず、本書ではブルース(第1章)やロックンロール(第3章)を語るときにも、アメリカの音楽文化を受容する国としてのイギリスが重要な参照点となっていることは特筆したい。
 また、第8章の「アフリカ音楽:「過去」と「記憶」を蘇らせるグローカルな実践」も示唆に富む。グローバリゼーション以後のローカルを捉え直すための概念「グローカル」と、特にインターネットなどの情報技術の進展を踏まえた音楽の状況を指し示す「ワールド・ミュージック2.0」をキー概念としながら、「ワールド・ミュージック」の功罪とその乗り越えを論じ、そして2010年代以降顕著になった、音楽市場のグローバル化に伴う「アフロビーツ」の台頭までをも視野に入れる。どの章もきわめてアクチュアルな問題としていまの私たちの足元へと接続されていくのだが、第8章はなかでもクリティカルなトピックが扱われているように思う。ポップミュージックに限らず、たとえばウガンダのNyege Nyege Tapesの「アフリカ」というラベルにとどまらずにネットワークを広げる旺盛な活動(同レーベルはアフリカ諸国のみならず、メキシコやブラジルのプロデューサーによる作品もリリースしている)を考えるうえでも良い足場になるのではないだろうか。
 ジャンル史となると、どうしても「起源」や「真正性」といった本質主義に接近してしまいそうになるが、本書はリバイバルを主題とすることでそうしたモチベーションを相対化し、「正史」とは異なるアプローチで歴史と向き合う方法を模索しようとする。ブルースを取り上げた第一章からして、リバイバルにつきものの本質主義・懐古主義的なモチベーションが抱えがちな問題に正面から切り込んでいる。
 一方で、現代の情報環境によってあらゆる過去がヒエラルキーを失ってフラットになり……という、もはや紋切り型となった、ユートピア的な、あるいは過剰にペシミスティックな語りを注意深く退け、「過去」と私たちリスナーがどのような関係を取結び、どのようなダイナミズムを生み出そうとしているかを真摯に見つめようとしている点も良い。その結果、とめどなく繰り返されるリバイバルという運動そのものもひとつの普遍的な原理に集約されるではなく、複数的であり、社会的・技術的条件の変化に従って歴史化されていくこともうまく指摘されている。いわく、

いずれにせよ指摘できそうなのは、過去の真正な様式への復権を目指す純粋主義的なリバイバルも、あるいはまた、フィジカルメディアへのフェティシズムに基づいたリバイバルも、それがこの先すっかり姿を消してしまうのはありえないにしても、すくなくとも、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、グローバリゼーションやテクノロジーの進化が中途段階にあった時代において西洋(や日本)という特定のローカル地域でピークを迎えた「特殊な音楽の受容様式」として記憶されていく可能性もありうる、ということだろう。(p.349『ポップミュージックはリバイバルをくりかえす』)

 本書は、「新しさ」に依拠しない、別様の歴史の語り方を鮮やかに提示するわけではない。むしろ泥臭いまでの歴史のたどり直しが大半を占めている。しかし、その実践のあり方自体が、読者にさまざまなヒントを与えてくれているように思う。
 上掲の引用にもあらわれているように、本書はポップを語る上で避けることができない西洋中心主義のバイアスに自覚的かつきわめて反省的なアプローチが注意深くとられている。とはいえ、英米と日本に事例が集中しがちであることはたしかで、本書全体で行われている問題提起をふまえたううえで、たとえば「アフリカ音楽」の章や、リバイバルの現在を追おうとする終章で蒔かれた種をどのように育てていくかも問われていくだろう。

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