岡村詩野音楽ライター講座的『Year in Music 2018』

OTOTOYが主催するオトトイの学校にて、音楽評論家として活躍する岡村詩野のもと、音楽への造詣を深め、「表現」の方法を学ぶ場として開講している「岡村詩野音楽ライター講座」。
2013年より、年末に製作してきた『Year in Music』。その名のとおり、受講生の選盤によって、その年のベスト・ディスクのレヴューを集めたものになります。今回はそれぞれが2017年に聴いたベスト・ディスクを選定し、レヴューを執筆、さらにその作品が現在のシーンにおいてどういった立ち位置にあるのかを考察し、そのつながりを紐解いた、シーンの総論を掲載します。
ひとりの師を仰ぎながらも音楽の趣味嗜好の異なる書き手たちが選んだ2018年のベスト・ディスクを、2019年につながるひとつの指標としてお楽しみください。
Year in Music 2018
>>> ダイバーシティから紡ぐ音、これからの未来(Text by 三好香奈)
>>> エモ・ラップよ、人々を内側から照らせ! (Text by 高久大輝)
>>> ストリーミングの時代にひとつの作品と向き合うということ(Text by 浅井彰仁)
>>> スタイルセッターになったディーヴァたち(Text by 加藤孔紀)
ダイバーシティから紡ぐ音、これからの未来(Text by 三好香奈)
三好香奈が選ぶ2018年の3枚
・クリス・デイヴ&ザ・ドラムヘッズ『クリス・デイヴ&ザ・ドラムヘッズ』
・cero『POLY LIFE MULTI SOUL』
・カマシ・ワシントン『HEVEN AND EARTH』
俯きがちにだれもがタイムラインを眺めて、今日も顔を見たことのない誰かと、馴れ合いに彩られた会話を繰り広げる。それは挨拶だったり、好きな音楽の話、他愛のない話題、とシェアするものは様々。繋がっているような、いないような感覚はわたしたちにどことなく安心と空虚を問いかける。そっとSNSを閉じて今度は、ニュース番組に目を向けてみると世界では様々な陰惨なニュースが影を落とす。アメリカの移民問題やミャンマーのロヒンギャ難民…。私たちの想像力が及ばないところで今日も解決のめどが立たない差別と迫害に追われたマイノリティな人々のトピックには心が痛むし、自分1人の悲しみが世界を塗り替えはしないのだ、と無力に襲われたりもする。そんな今のご時世に私の耳に飛び込んできた音楽といえば、この時代の混沌の中から生まれた者たちが奏でるジャンルを越境していく強さを持ち、リズムとビートが響きあう音楽たちだった。
まず、現行のジャズ・シーンの重要人物であるドラマーのクリス・デイヴ。今年初メジャー作『クリス・デイヴ&ザ・ドラムヘッズ』をリリースし、ジャズ、ヒップホップ、R&B…分断したジャンルの上を、ビートメイカー譲りのドラムプレイが小気味好いセンスで横断していく。ここ日本でも、クロスオーバーした作品がシーンに躍り出たことは記憶に新しい。リズムやビートに焦点を当てたceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』。様々なジャンルの文脈が複雑に絡み合いながらも、新たな日本語ポップスとして迎合され、躍進的な日本語詞とビートの深化には誰もが体を揺らした。そしてニューヨークから、ジャズ界を牽引しているサックス奏者のカマシ・ワシントンが「HEVEN AND EARTH」で壮大なジャズサウンドを響かせたことも重要な出来事だ。未だ治安の悪さに名残がある現地からの祈りのような産声。同志たちで手を取り合いながらジャンルの壁を軽々と越境していく多文化の町から生まれ出たアンサンブルに前向きな未来への足音を感じた。
それぞれにジャンルをクロスオーバーしていく趣きには、多様性がもらたした、人種、思想や性別が違うことをお互いが受け入れ、尊重しある未来の音楽のように聴こえてきたのだ。一人ひとりのアンバランスさが、寧ろ音楽として重なった時に心地いいグルーヴを生み出す。ceroが〈同じ場所にいながら 異層に生きるものたち〉と同じこの年代を生きながら、それぞれが違うことの大事さを歌詞でリフレインさせたことにも象徴されているように。だが気持ちいいビートに体を揺らす一方で私には、現在のSNSが生んだクラスタ化による一つの属性の集まり、似通った趣味・嗜好のユーザー同士の交流が盛んな現在に警鐘を鳴らしているようにも思える。自分の知りたい情報だけに焦点を当て、その一部分だけに精通してしまうことや、自分の意見と対立するアカウントにはボタン一つでブロックできてしまう。しかし音楽がジャンルの壁を超え、自由に行き来出来るものならば、現実でも互いの差異や個性を容認出来るのではないか、と。
SNSの世界で同じ話題で盛り上がる日常より、まずは、自分の考えをきちんと声に出して生身の相手に伝えてみることから、始めたい。ダイバーシティの時代が紡ぎ出す音楽には、世相から乖離された日本の政治や、はたまたアメリカとメキシコの間にそびえ立つ壁…様々な障壁を無くすことができるかもしれない、誰しもの一歩に成り得る力強さが備わっている。
やれやれと、現実に目を見据えてみるとテレビのニュース速報では米中間選挙の投開票の結果、トランプの共和党勢が下院敗北したことが堰を切ったように伝えられている。リベラル勢の復活の兆しとは幸先のいい一報。まだ見ぬ未来への足音は確実に忍びてきていることを実感しつつ、ここは一先ず好きなリズムに身を委ねよう。2018年のポジティブな感覚に溢れ躍動に満ちた音楽は、私たちの分断された隙間を鮮やかにぬいながら新しい可能性を示してくれた。
エモ・ラップよ、人々を内側から照らせ! (Text by 高久大輝)
高久大輝が選ぶ2018年の3枚
・リル・ピープ『Come Over When You're Sobar, Pt.2』
・XXXテンタシオン『?』
・ジュース・ワールド『Goodbye & Good Riddance』
「自分らしさ」とは何か。それは誰が決めるものなのだろうか。人種、国籍、性別、宗教…自らをカテゴライズする枠組みたちと日々を取り巻く人々とが重なり自分の輪郭が浮かび上がるとき、そんな問いかけが目の前に現れる。音楽、中でもヒップホップにおいてカテゴリーを背負うこと、とりわけその生まれ育った場所や地域を背負うことはオールド・スクール期、ニュー・スクール期を経る中でその音楽のひとつの特徴として根付き、ギャングスタ・ラップあるいはGファンクと呼ばれる西高東低の風を浴び、その中心地をアトランタに代表されるサウスサイドへ移してもなお伝統的に受け継がれている。それはある種の美学でもあり、家庭に居場所のなかった少年少女たちにとって路上で流れるヒップホップはその地域の代弁者としてアイデンティティの拠り所でもあっただろう。無論この原稿を書く私もそんなヒップホップに魅了された1人だが、2010年代、まさに現在進行形でその関係は揺らいでもいる。
今更こんなことを言うのは少々野暮な気もするが、レコード、カセットテープ、CDといったフィジカルからインターネット上へと音楽のプラットホームは場所を変えた。そしてそんな境目のない場所からLil Peep、XXXTentacion、Juice WRLDらに代表されるエモ・ラップと呼ばれるシーンは出現する。歌に近いメロディアスなフロウ、ギター・サウンド、トラップ以降のサスティンを抑えたハットの刻み、サブベース…中でも酒やドラッグにハートブレイクや自死を絡めながらの極端に内省的/感情的なリリックはそのシーンの名称の由来となっていることからも明らかな通り、最も大きな特徴だ。当然のごとく彼らが発信する先には様々な国や地域があり、特定の場所を目がけたものではない。だからこそ彼らは私たち人間が共通して持っている、それぞれの内側に渦を巻く感情を歌う必要があった。同じように一貫性などという言葉では括れない、そのときどきでうねり、カタチを変える、あなたの感情へ向けてーー感情は「自分らしさ」ではないのか?
同時に社会も、いや、若者たちも彼らを求めていたといっていいだろう。多様性を謳いながらも発言や行動の揚げ足の取り合いを続け、無理にでも既存の枠組みに押し込める世の中に対してやり場のない想いが募る昨今。加えて現状ポップミュージックの中心地であるアメリカを見れば、トランプ政権が加速させたレイシズムとそれにリアクションする著名人がひとつのコンテンツとも言えるほどメディアに取り上げられ、消費されている(トランプ大統領とカニエ・ウエストの一連の動きをみても明らかだろう)。そう、何らかのカテゴリーを背負うことは言い換えるなら枠組みに押し込められることでもある。自分という理路整然と並べることのできない存在と定義された枠組みの間に生まれるアンビバレンスはじりじりと窮屈さを生み、必然的に若者たちは実社会のどこかに居場所を見つけるより自らの内側へと沈み込んでいく。自らの感情と向き合いながら──「自分らしさ」はどこにある?
このシーン(これもまた枠組みだが)においてドラッグも非常に重要なトピックの1つだ。ヒップホップのリリックにおいてドラッグの名称は頻繁に用いられてきたが、感情を歌う彼らはドラッグディールについてではなく、あくまで使用者としての立場で描くことが多い。それもドラッグの生む享楽によって若者は抑圧された感覚から抜け出すことができると考えれば合点がいくはずだ。もちろんそれは一時的なものだが、Lil Peepのオーバードーズによる死も記憶に新しい通り、ドラッグの使用は享楽とともに死の匂いも運んできてしまう。しかし、Lil Peepと同じように命を落とした(こちらは他殺だが)XXXTentacionは僅かな希望を残していった。彼の生前最後の作品となった『?』には過去作から地続きの内省的かつ衝動的な色の中に、社会に対して献身的な姿勢が刻まれている。それは孤独と向き合ってきた彼が同じように孤独を抱えるファンと感覚を共有することによって社会性を取り戻した、つまり社会から目を背け内側へと沈み込むことによって社会性を獲得した証だ。また先日、初の来日を果たしたJuice WRLDもヒップホップ・シーンにおける大先輩フューチャーとの共作『Future & Juice WRLD Present... WRLD ON DRUGS』をリリースし、この感覚が世代を超えて共有されていることも示してみせた。
「自分らしさ」とは、おそらく、社会性。つまり君が外側からどう見えているのかの自覚。それは基本的に他者の存在に依存している。だが、外側ではなく内側からそれを発見することも可能であるとエモ・ラップは混沌とする現代に向けて雄弁に語っているのではないだろうか。かつて、家に居場所のなかった少年少女たちが路上でスピーカーから流れる爆音に希望を見たように、2018年を跨ごうという今、部屋の片隅で暗がりを見つめる少年少女たちもまたイヤホンから流れ込む感情の中に希望を見ているのかもしれない。
ストリーミングの時代にひとつの作品と向き合うということ(Text by 浅井彰仁)
浅井彰仁が選ぶ2018年の3枚
・ライ『Blood』
・シャムキャッツ『Virgin Graffitti』
・Say Sue Me『Where We Were Together』
音楽を聴くのに疲れた。唐突で申し訳ないが、今年の私にとって新譜を聴くというのは骨の折れるものであった。ストリーミングが日本で開始した当初は、自分が聴きたい音楽に何のストレスもなくアクセスできるということに興奮を覚え、毎日知らない曲と出会うことが楽しかった。しかし、2年経った今ではストリーミングの環境にすっかり慣れ、音楽を聴くことが億劫になってしまった。作品を聴き込む前に次の作品が出てきてしまうので、流れ作業のように作品を聴くことが増えてしまった。次々と聴かなければならないものに追われるということが私にとって疲れを感じさせるものであった。
だが、上記3作品は自分が疲れを感じることなく聴けた。それは、彼らの作品が聴くたびに新たな発見を見いだせるものであったからだ。シャムキャッツの作品は一聴した段階ではシンプルなギターポップという印象である。だが、アコースティックでコンパクトなサウンドに、煌びやかなギターを乗せた曲が中心でありながら、「BIG CAR」のような歪んだ曲や「まあだだよ」のようなサイケな曲を入れても散漫にならない。前作『Friends Again』を踏襲したうえで、着実にステップアップしていることが聴くとわかる。冒険心を保ちながら、作品としてまとまったものを届けている点にバンドの進化が感じとれるのである。 3曲目の「完熟宣言」の「もしも願い叶うならばはぐれた仲間の分まで幸せな未来ちょうだい」という歌詞も制作背景を知ったうえで聴くと涙ものだ。
Say Sue Meはハイハットを使いすぎないミニマルなドラミングに、コーラスやトレモロのかかったギターを乗せるのがバンドの特徴のように思えるが、後半に進むにつれ音がハードになっていく。ラストの「Coming To The End」で美しい轟音が鳴っているときには、アルバムを再生し始めたときと同じバンドなのかと思うくらい演奏がエモーショナルになっている。アルバムを再生していくうちに、後半2曲のようなバンドサウンドを鳴らすことがSay Sue Meの根幹にあるのだなと気づかされる。彼らのサウンドがPavementを彷彿とさせるのも、「オルタナティブ」という言葉がメインストリームのカウンターとして機能していた時代の精神が宿っているからなのかもしれない。
Rhyeの演奏はシンプルで無駄がなく、余計な音が入っていない。ドラムのキック、スネア、ハイハット、そしてベースといった基盤となる音が鮮明に聴こえてくる。弦のフレーズをスタッカートで切ったり、スネアに布を被せたりするなど、徹底的にサステインをなくし、無駄を省いているのがわかる。マイケル・ミロシュのヴォーカルもどこか憂いを帯びており、作品の美しさを際立たせている。だが、これだけデッドな作品でありながら、ライヴになると楽曲は熱量を帯び、グルーヴ感を増す。楽曲を違う角度から楽しむことができ、また新たな発見をすることができる。
作品は1枚聴いたら終わりではなく、聴くたびに発見があるものであるべきであり、ひとつの作品と丁寧に向き合うことは疲れるのではなく、楽しいのだということを、この3作品から思い出すことができた。ストリーミングという強く速い流れの中から、時代に流されない作品と巡り会えたことは2018年の私にとって幸福であった。(Text by 浅井彰仁)
04. スタイルセッターになったディーヴァたち(Text by 加藤孔紀)
加藤孔紀が選ぶ2018年の3枚
・ジャネール・モネイ『Dirty Computers』
・リリー・アレン『No Shame』
・宇多田ヒカル『初恋』
今年のコーチェラ・フェスティバルにヘッドライナーで出演したビヨンセ、そのライブはスタイルセッターとして象徴的だった。デスティニーズ・チャイルドの再結成、黒人説のあるエジプト王妃ネフェルティティのコスチューム、ニューオリンズ・ジャズを彷彿とさせるビッグバンドアレンジなど、自身のキャリアや黒人という人種と音楽の歴史、ルーツを追及したパフォーマンスだった。「一番人気ではなくベストをやる」と発言したビヨンセ。ポップスターであることは優先順位の一番ではない。誰かに迎合するのではなく、自身について探求し、その存在が何たるかを示したステージだった。
スタイルセッターはファッションの文脈で使われる言葉。セッターの意味はリードする人、それぞれが自身のスタイルを決定しリードしていく。また、広義に女性ポップスターを指す言葉としてディーヴァがあるが、そう呼ばれた歌い手たちは、2018年においてはスタイルセッターと呼ぶ方がしっくりくる。それぞれが自身のスタイルを提示して向かう先は、誰かに決められたポップスターという位置ではなく、自身が何者であるかという模索の道のりだ。
スタイルセッターは必ずしも楽曲を制作しない。自身の意図を楽曲に反映させることにおいて自作自演に越したことはないが、彼女たちは自作、他作、共作と楽曲制作の形態に左右されず自己表現に成功している。その方法は、ライブ、歌唱、楽曲、ファッション、MVなど多岐に渡るが、あらゆることに主体性をもって取り組み、どんな場面においても本人が決定者であることで、例え他者が作った曲であったとしても自作的な表現を実現している。
4月にリリースされたジャネル・モネイ『Dirty Computers』もそうだ。デビュー時からタキシードに身を包み、JBマナーに沿ったエンタメ要素の強いパフォーマンスがアイコンだった彼女が徐々に変化をしていく。2016年には映画『ムーンライト』『ドリーム』に出演し俳優業へ。『ムーンライト』では主人公・シャイロンの実母に代わる母親的存在テレサを、『ドリーム』ではNASA初の女性黒人エンジニア/メアリー・ジャクソンを演じた。いずれも女性、そして黒人といった自身のアイデンティティに向き合うことを要する役だ。
本アルバムのリード曲「Pynk」のMVの映像は鮮やかなピンクに彩られており、ジャネル・モネイ本人が着用する衣装は女性器を思わせる。本作がリリースされた際のインタビューで「自分のことを知ろうとしている」と答え、自身を「アメリカのクィアな黒人女性、パンセクシュアルに当てはまると思った」と話している。自身が女性であることに向き合ったうえで、P"i"nkではなくP"y"nkという一般的な定義とは少し違う色=価値観を表明した。
2006年「Smile」で一躍ポップスターの仲間入りを果たしたリリー・アレンも2018年はそんな歌い手の一人だ。『No Shame』は今までと異なり内省的な作品、初期楽曲のリズムパターンを踏襲しつつもサウンドはリズムボックス、シーケンサーを中心にミニマルな音作りに。サウンドがシンプルになった分、歌と歌詞が協調され弾き語りのような印象のある楽曲群で構成されている。
幾度かの離婚を経てシングル・マザーとなった彼女。「Come On Then」では母、妻としての自身を責め、孤独な気持ちを吐露するが、そこには過去を振り返り前を向こうとするリリー・アレンがいる。No Shame、恥じることはないと宣言しているもののピントが合っていない自身の写真をジャケットに採用するあたり、これまでの堂々としたスター的アプローチとは異なる印象だ。かつてのポップスターというピントの定まった位置から離れ、自身の内面や実生活に向き合ったことで、新たな表現にトライした作品となっていた。
一方で自作自演のスタイルセッター、宇多田ヒカルも『初恋』をリリース。CDの販売数、国内での知名度を考えると彼女は日本において大衆性のあるディーヴァだったかもしれない。デビュー時から楽曲を制作しているシンガーソングライター宇多田ヒカルは、他作、共作の多い前述の三人と異なり自作主義だ。前作からサウンドが大きく変わることはなく、普遍的なサウンドを聴かせてくれる本作。彼女にも様々に出会いや別れなどがあっただろうが、作品の印象が大きく変わることはない。それは、彼女が始めから自作という行為を通して自身を詳細に見つめ続けていたからかもしれない。
新旧問わず「ぼくはくま」「パクチーの唄」を聴くと、まるで知人が自身の趣味を熱弁しているような近い距離感がある。そんな至極個人的なことを歌にしたり、自己を中心に創作するのが宇多田ヒカルのスタイルだ。彼女は創作を始めたときすでに広義のディーヴァではなく、独自路線を歩むスタイルセッターだった。今後も創作の主体性が維持される限り、そのスタイルが変わることはないだろう。
2018年、ディーヴァという概念は必要ない。音楽においてのショービズ的な枠組み、そして絶対的な創作のルールはもう存在しない。彼女たちは楽曲制作に限らず様々なアプローチで自身の意思を反映する方法、ともすればそれぞれの生き方を映す方法を獲得している。そこに主体性がある限り、スタイルセッターである彼女たちが歌う音楽は、自分自身で決定したスタイルの提示であり続ける。(Text by 加藤孔紀)