たえざる錯誤のはての名づけようのない音楽 Text by 松村正人
シュルレアリスムの名づけ親の詩人のアポリネールが活動の後期に手がけたカリグラムなる手法はエッフェル塔とかネクタイとか、文字をなんらかの形態になぞらえて配置することで、言語と視覚の二重化なかに第三の意味のたちあがりを期待したものだが、20世紀前衛の退潮とともにしだいに忘却の淵に沈んだ――はずなので「ただの好奇心」の歌詞をカリグラムと呼ぶには二の足を踏みそうになる。そもそもこうして歌詞と首っ引きで『自然とコンピューター』を聴くまではそんなことは思いもしない。ためしに冒頭の歌詞を書き出してみる。
あ
目を
閉じて
ひらいた
ここはどこ
ここはここだ
わたしをかえる
ただのこうきしん
(ただの好奇心)
ご覧のとおり1行ごとに音(おん)がひとつずつ増えている。次のスタンザも同様、その次は反対に一音ずつ減るように、すなわち逆向きの坂道になっている。出戸学にすれば、たいした意味はないかもしれないし、一拍に一音が対応するのでもないので聴覚上の効果もほとんどない。なのにこだわってしまったのは「あ/目を」の歌い出しを「雨を」と聴き違え、アポリネールの「IL PLEUT(雨が降る)」を想起したから。彼らにしたらいいがかりにちかい評言だろうが、近年のオウガにはどうもそのような感覚的錯誤を誘い出そうとするふしがある。
この曲は『自然とコンピューター』の真ん中で後半のはじまりとなる。前半と後半でそれぞれインスト曲をふくむアルバムの構成はシンメトリックで、聴き手は「ただの好奇心」でふりだしに戻るかのような錯覚をおぼえるのではないか。音楽的には冒頭のダブにはじまり、ソウル、ファンク、ジャズあるいはニューウェイブと、前作までの後期CANさながらの折衷主義の名の下に編みあげた要素をばらばらにほどいて再定義するかのような傾向がある。とはいえ形式に準拠するというよりは擬制ないし擬態のようなものなので編曲うんぬんの問題ではない。そのような多様性を背景に、OYAはおそろしく滑らかで多孔質なサウンドを展開していくのだが、それを奏で歌う主体は自己言及と懐疑により離人症的なポジションに退行しかかっている。「家の外」とはその謂であり、OYAは軽い腰をあげ、自己の外に出るのだが、それにより内と外という二項対立的な命題が解決するかといえばさにあらず、曖昧さや複雑さや不確かさにとどまりつづけることで境界はかえって滲んでいく。たえざる錯誤のはての名づけようのない音楽。おそらく『自然とコンピューター』の題名も自然かコンピューターかということではない。むしろどちらでもない。
松村正人
1972年奄美生まれ。編集者、批評家。雑誌『STUDIO VOICE』『Tokion』編集長を経て2009年に独立。著書に『前衛音楽入門』、編著に『捧げる 灰野敬二の世界』『山口冨士夫 天国のひまつぶし』『青山真治アンフィニッシュドワークス』『文藝別冊 髙橋幸宏~音楽粋人の全貌』『シド・バレット読本』など。湯浅湾のベース奏者として『港』『脈』を発表。