言葉がひらがなに聴こえる瞬間みたいなのがあって
──時間を巻き戻すんですけど、最初のEP『1999』の頃までの影響としてはどういうところが大きかったですか? 初期のサニーデイ・サービスみたいな印象も受けたんですが。
北川:好きですね。メロディは細かく譜割りしない感じというか、4分音符1個ずつ並べていくみたいな感じはサニーデイですね。それこそ、たまの系譜かな。サウンドに関して言うと、当時聴いていたのはUnknown Mortal Orchestraって分かります? だから真逆のルーツっぽいのが2本通っていて、思想とか歌詞の面とサウンドとかアレンジ面で混ざってああいう感じになっていたのかなと思います。
──曲作りは当初どんな方法で?
北川:バンドをやるってなって最初に書いた曲はギター弾きながらですけど、4〜5歳ぐらいの小っちゃい時からクラシックピアノをやっていたんです。毎年1曲ずつ作曲して発表する場があって、その頃から曲を作るのは好きだったんだと思います。
──ピアノ教室で? すごい。
北川:理論の座学の授業もあって。ピアノ教室に週2回行っていたんですけど、1回は実技のレッスンで、もう1回は楽譜に「コード書き込んでいきましょう」ってやっていて。メロディとコードが載ってて「これにハモリのライン書いてみましょう」とか、そういう授業があったんです。いま思うと理論的なことはその時にある程度身につけられたのかなって気はしてます。

──作詞家としてはどういう影響があるんですか?
北川:歌詞で言うとさっきあげた人たち、TOMOVSKYやホフディランの曲とかそうなんですけど、言葉がひらがなに聴こえる瞬間みたいなのがあって。声質とか節回しでそう聴こえるのかもしれないですけど、とにかく歌詞がひらがなに聴こえるように難しい漢字は絶対使わないようにしようっていうルールは僕のなかでありますね。
──平易な表現を心がけている、というのとは違うんですか?
北川:自分の曲を聴いていると、ちょっと声が幼いというか、大人に聴こえないからちょっと攻撃的なことを言っても意識してるよりもやさしく聴こえちゃうことがすごいコンプレックスだったりもしたんですね。でもよくよく考えてみたら、自分が聴いてきた人たちも、声が特徴的で幼かったりとか、それこそ難しい言葉を使わないんですよね。そういう部分で無意識のうちに影響を受けているのかな?って思うようになってきて。無意識に影響を受けてきて、いまはちょっと意識してやるようにしてます。
──むしろ当たり前だけど強さのあることを歌える強みもあるのでは?
北川:そうですね。例えばラヴソングの歌詞でも、なにかに例えるよりも、「君が好きだ」ってシンプルな言葉の方がいい時があると思うんです。まわりくどく比喩とか使われるとしゃらくさい時ってあるんですよね。僕が好きな人達は、わざとシンプルにぶつけてくる。それもすごい好きですね。
──ミュージシャン以外の言葉の影響は?
北川:高校時代から谷川俊太郎さんの詩集が大好きで、卒業文集に…僕、北川隼也っていうんですけど、ふざけて“北川隼太郎”って書いてました(笑)。(谷川さんの詩は)かゆいところに手が届く感覚がすごいあるんですよね。自分ではいままで言葉にできてなかったことを言葉にしてくれるというか。「確かにそれ感じたことある」じゃないですけど。あとは優しいんだか厳しいんだか、怖いのか美しいのかわかんないみたいな表裏一体感はすごい好きですね。小説だと伊坂幸太郎さんは全部読んでるぐらいでした。幸太郎さんの作品って、ロジカルだけど表現としても美しいみたいな、中庸を行ってる印象があって、そういうところがすごい好きでしたね。
──『1999』から2020年のファーストアルバム『cyan songs』では全然曲のスケールやジャンル感も変わりましたね。
北川:ファーストEPの時までは3人だったので、すごいミニマムにやってて。で、そっからギターがもうひとり入ったところでがっつりスケールが変わったっていうのと、確かに「俺はこっちかも」っていう意識の変化が大きかったのはその間のことですね。
──90年代の下北沢っぽいフォーキーなロックからグッと体験的な音像になって。その変化の集大成がアルバム『cyan songs』だと思うんですが、このアルバムでの影響やリファレンスは何だったんですか?
北川:当時コロナ禍に入って2ヶ月ぐらい本当に暇で、毎日曲をちょっとずつ作ったりしてて。で、収録曲のなかで“蜃気楼”と“dystopia”が最初にできたんですけど、その2曲はリファレンスとか本当に意識しないで、出るがまま出てきたみたいな感じだったんですよ。で、それができたタイミングで、だんだんライヴも20時までならやれるような状況になってきたし、「名刺になるようなアルバム作ろう」って話になって。それはもうその時作っていたものがファーストEPと色が違いすぎるからなんですけど。
──なるほど。
北川:結構苦しんでたんですよ。ファーストEPの印象があって、ポップだと言われてしまうんだけど、「ライヴ観たら思ったよりもっと深みがある感じなんだね」みたいに言われることにコンプレックスがあって。一刻も早くその色を塗り替えるためにまとまった曲数を出したいと思ってアルバム『cyan songs』を作りはじめるんですけど、その時は踊ってばかりの国とか、ちょっとサイケデリックなものとかを聴いてましたね。
──その頃は北川さんの曲の作り方も変わっていたんですか?
ミノワ:打ち込みで作ってもらうものは「グルーヴだけは踏襲して」みたいなものだったから、僕は「こういうことやりたいんだろうな」っていうところだけを汲み取っていました。フレーズは個人に委ねられてましたね。『cyan songs』の1曲目の“radiatus”って曲はスタジオで「アフリカっぽいビート叩いて」って急に言われて、そこから作ったりとか。わりとイメージ先行で伝えてもらうことが多かったんで、情景とかを意識しながら試行錯誤した記憶がありますね。
北川:当時は携帯のGarageabandでやったんで(笑)、僕らみたいなジャンルの曲は打ち込みでできるはずはなく(笑)。バンドっていう形態だから、自分の思い描いてた対象からずれていく作業、「想定してるやつよりすごいいいのが来たやん!」っていうのがすごい楽しくて。だから打ち込みは作り込みすぎないようにしてる感じですね。その代わりに例えばスタジオで「これはアフリカやねん。お前のアフリカを見せてくれや」って叩かせてみたり、“蜃気楼”で言うと、「朝の白けた海で、遠くの方には工業地帯みたいなものがあって、かもめ飛んでて」みたいな、脳内に絵を一緒に描いて、ひとしきり細部まで共通認識として持ってから、「じゃあやってみよう」みたいな感じで進めてたりしてましたね。
