
終戦記念日に福島でフェスティバルをやろう―― 遠藤ミチロウのそんな提案から<プロジェクトFUKUSHIMA!>は始まったのだという。そして8月15日にあづま球場のステージに立った彼は、途方もない怒りを歌に乗せていた。それは放射能被害の渦中にある福島から放たれた声であり、今の福島を全世界に発信するという<プロジェクトFUKUSHIMA!>の決意そのものだった。
地元福島を飛び出してからはザ・スターリンの首謀者として全国でその名を知られるようになり、還暦を過ぎた現在も年間100本以上のライヴ活動を続けているこの不屈のパンクスは、3.11の震災によって引き起こされた原発事故を受けて、傷つけられた福島から声を発し始めた。そんな彼を突き動かしているのは、愛情だけではとても言い表せない故郷への複雑な思いだった。『フェスティバルFUKUSHIMA!』翌日の記者会見を直前に控えた中、遠藤はこのプロジェクトと故郷の二本松市について、ステージで見せる姿からは想像もつかない、とても穏やかな表情で語ってくれた。
インタビュー&文 : 渡辺裕也
写真 : 佐々木亘

遠藤ミチロウ(ザ・スターリン246) インタビュー
――昨日はフェスティバルの途中で行われた囲み取材にも参加させて頂いてたんですけど、その時にミチロウさんが福島県に対して「愛憎入り乱れた気持ちだった」とお話されていたのがすごく心に残っています。
まあ、実際そうだったんだよ(笑)。高校の頃くらいからかな。とにかく二本松を出たくてしょうがなくてさ。大学は絶対に福島じゃないところに行くんだって(笑)。でも東京には行きたくなかったから、北海道の大学を受けたんだ。そこで落ちて、山形に行くことになったんだよ。とにかく北に行きたかったんだよね。
――(笑)。なぜ北だったんですか。
今となってはわかんないけどね(笑)。あ、そうだ。高校の時にスケートをやっていたんですよ。授業をさぼってスケート・リンクでスケートばっかりやっていたんだ。で、北海道に行けば思う存分スケートがやれるなと思ってたね(笑)。でも、山形はそんなにスケートをやるところがなくて、スキーばっかりでさ。スキー場は福島にもあったからね。
――福島でどんな十代を過ごしていたんですか。
中学校までは典型的な優等生でね。いつも学級委員長をやってて、成績はオール5みたいな感じだったね。それが高校に入った辺りから、そういう自分がいやになったんだ。何が理由かはわからないんだけど、自己否定したくなったんだよね。それで授業をさぼったりするようになってさ。
――それはあくまでも自分の内面的な問題でしょうか。環境からの影響はあまり関係なかったのでしょうか。
それはやっぱり環境も関係あるよ。そういう時期に育ってきた場所が二本松だったからね。中学校までは完全に二本松で過ごしてきたんだから。高校で福島市に通うようになったら、二本松で出来上がった自分をぶち壊したくてしょうがなくてさ。それがあったから二本松に対する複雑な思いも生まれたのかな。特に若い時は否定したい方の自分ばっかりが強いでしょ? でもこの歳になってくると、それとは別の、自分の子供の頃の愛せるところもでてくるんだよ。それはそのまま自分にとっての愛おしい二本松にもなるんだ。そこは複雑だよね。まあ、だれでもそういう時はあるよね。子供の時って、親と衝突して「こんな家を飛び出したい」とか思うもんじゃない? 将来は自分の行きたい方向に進みたいと思うようになれば、必ず親の願いとはぶつかるよね。それ自体は誰にでもある普通のことだと思うし、そこをなかったことにして「福島を愛してます」みたいなことをさらっとは言えないんだ。
――僕も今回の震災があったことで、自分は二本松で生まれ育ったんだということを改めて強く自覚させられました。でもそれは二本松への愛情だけじゃなくて、ネガティヴな側面も含まれているんです。
そうだね。今回のことで俺が何かやらなきゃと強く思うようになったきっかけは、原発事故のあとの風評被害の方なんだよ。福島差別とか、いろいろ言われたじゃないですか。あの時に「やらなきゃな」っていう気持ちにさせられた。原発事故が起きた時にも「福島、やばいな。どうしよう」と思ったんだけど、自分には何もしようがない感じだった。でもあの風評被害が出てきた時は、自分もその被害に晒された気分になったんだよね。自分も差別されたと思ったんだ。原発事故によって傷つけられたところで、さらに傷口に塩を塗り込まれるようなことになって、そこで「クソ! 」っていう気持ちが沸いてきたんだ。つまりそれは自分と向き合うことにもなったんだ。「福島がんばれ」だけじゃ済まなくなったんだよね。原発事故も人災だけど、風評被害っていうのは人間が作り出したもので、人間関係をズタズタにすることでしょ。それは自分に関わる問題でもあるからさ。

――世界で唯一の被爆国である日本であのような風評被害が起きたのはとても残念なことでした。一方で、いまの若い世代には原発事故を理解するまでに時間がかかった人も多かったと思います。そんな中でミチロウさん達が<プロジェクトFUKUSHIMA!>を立ち上げ、いち早く動き出せたのは、みなさんが震災前から福島原発にいくらかの不安や危険を感じていたこともあったのではと思ったのですが。
いや、なにもわからなかったんだよ。当時は俺もまだ高校生くらいだったから、原発がどんなものかなんてわかってなかったし、実際に出来たときにはもう福島にいなかったからさ。でもね、福井の原発(敦賀発電所)が稼働して、次の年の春に福島原発も稼働するんだけど、その福井の原発は最初に作った電力をどこに供給していたと思う? 大阪万博の会場なんだよ。つまり「これから日本は高度成長に向かっていくぞ」という時のエネルギーが、実は原発だったんだよね。戦後の日本の高度成長と原発はとても強く繋がっていて、表裏一体の切り離せない関係だってことを俺も最近になって知ったんだよ。だから開催日は8月15日にこだわったんだ。万博があって、その後にバブルを迎えて、崩壊した。それでこれからはエコロジーだと騒がれ出したら、今度は原発がヒーローみたいに言われだして、なんか嘘臭いなと思ってさ。確かに世の中には環境問題というものがあったんだけど、そこを利用するように「原子力はCO2を排出しないクリーン・エネルギーだ」とか言いだしたんだよ。でもCO2よりも放射能の方が怖いよね(笑)。そういうまやかしやいくつものウソの積み重ねが、この原発事故によってあからさまになったんだよね。
――つまり原発ができたのは戦後の高度経済成長の流れにあると。すべては66年前から始まっているという意識から始まったんですね。
そうだね。
全員で福島での戦いを真剣に楽しみたかった
――『フェスティバルFUKUSHIMA!』は開催日直前までなかなか全貌を見せなかったですよね。そこはなにか事情があったのですか。
なかなか情報が出せなかったんだよ。とりあえず僕と大友さんが声をかけてイベントの実行委員を集めたんだけど、みんな「福島で何かしなきゃ」っていう気持ちで集まった、いわば素人だから、すべてが手探り状態で始まっていったんだ。プロがイベントをやったら準備も宣伝も手際よくやれただろうけど、僕らは全員がアマチュアの集まりだったし、しかも最初に打ち出したのがフリーでやるっていうことだったから、まずはその資金をどうするかっていう問題から始まったんだ。資金のめどが立たなければどういう規模で出来るかもわからないし、会場を決めるにしても放射能の問題があって、どこを使えばいいのかわからなかったから。フェスティバルっていうと、普通は出演者とかが肝心なんだと思うけど、僕にとってはそれよりも、場所とどういう趣旨でやるのかが重要だった。何がこのイベントの最も重要なテーマなのかがしっかりしてから、最後に出演者を決めたんだ。だから来てくれる人からすれば、なかなか中身が見えてこなかったと思うんだけど、それはしょうがないんじゃないかな。放射能の問題と僕らがちゃんと対面して、今のこの福島の状況に対して僕らは何ができるのかをみんなで考えよう、というのがこのフェスティバルのメインだったから、そこで誰が出演するかは次の問題だったんだ。何人が集まるかじゃなくて、そこで集まった人と何を真剣に考えられるかがすごく大事だったんだ。
――このイベントの出演者は今の福島で何かしら伝えたいことや覚悟を持ってステージに立っている人達だっただけに、やっぱり他のライヴでは見せない凄みがそれぞれあったと思います。
うん。出演者の音楽を楽しむために来てもらいたいわけじゃなくて、出演者にもお客さんにも、今の福島のことを真剣に考えてもらって、それを楽しんでほしかった。戦いの中のお祭りとでも言えばいいのかな。「今みんなが戦っているんだよ」っていうことをお互いが共有しながら、その戦いの中ではじけようぜっていう感じだね。全員で福島での戦いを真剣に楽しみたかった。

――会場には県外からもたくさんの方々がやってきていましたね。
福島にいると放射能の問題はもう身近なものだよね。でも、やっぱり遠くに行けば行くほど温度差があるんだ。僕はずっと全国をツアーで回ってるから、その温度差をよく感じるんだ。でも、そんな遠いところからも来ている人がたくさんいてさ。彼らは多分いまの福島のことをものすごく考えてるから、わざわざ来てくれたんだと思うんだよね。だから今回のイベントに県外から来てくれた人は、ものすごい意識の高さなんだと思うよ。今の福島を自分の目で見て、体感しようと思って来ている人達なんだからね。僕はそれでいいと思うんだ。その人の中に福島の記憶と体験が残ってくれれば、ずっとその人は福島のことを忘れずに考えてくれると思うんだ。結果的にその人が福島にどういう思いを抱くのかはわからないけど、その人の中に今の福島が記憶として残ったということはすごく大切なことだと思うんだ。「あの日は暑かったな」でもなんでもいいんだよ。
――昨日は強い雨も降りました。エンケン(遠藤賢司)さんが演奏を始めたと同時に大雨がやってきて、終わった途端に止んだというのは、これから先も語り草になりそうですね。
エンケンさんは本当に嵐を呼ぶ男だよ(笑)。ああいう体験もさ、「すごかったな」と思ってもらえればそれでいいよね。フェスティバルの体験として強いものが残ってくれたら、それでいいんだ。
――ミチロウさんもステージからいくつもの言葉を発していました。特に「新しい福島を作ろう。それを新しい日本にしていこう」という言葉が今も頭から離れません。
本当にそうしたいよね。「がんばろう日本」とか「ひとつになろう日本」とか言ってるけどさ、今の福島の問題をちゃんとできないのに、そんな曖昧なことはないよね。今の日本ががんばらなきゃいけないことは、福島のことをちゃんとやるっていうことでしょ? これからの福島が希望の見える形になっていかない限り、「がんばろう日本」なんて言葉は絵空事に終わっちゃいますよね。それこそ、日本の経済が調子よかった時は、「がんばろう日本」なんて誰も言わなかったんだよ。今は負けている時だから、みんなそう言うんだよね。今は「がんばろう日本」じゃなくて、「目を覚ませ日本」だよね。がんばるべきところにちゃんと目を向けなきゃ。
――僕は自分自身が原発問題に捕らわれ過ぎていると思う時もあるんです。普段からこうやってミュージシャンの方に取材をさせて頂く機会が多いんですが、相手との話題が原発関連になるとついそこに執着して、相手を困惑させてしまったこともあって。
原発に対しては、ひとりの住民としてどう思うかが大事だよね。よくミュージシャンとしてどう思うかって聞く人もいるけど、そんなもんは関係ないんだ。例えば(放射線衛生学者の)木村真三先生が言うように、いま一番やらなきゃいけないことは除染や正確な線量検査だよね。僕らにできることはまずそれをきちんとやって、対応の仕方を知って、少しでも放射能の被害を少なくすることだから、そこに表現者もくそもないんだ。それは市民として行政と一体となってやらなきゃいけないことだから。で、この<プロジェクトFUKUSHIMA!>でやっているのは、今の福島から思いや文化を表現として発信することができないかということで。そこで初めてミュージシャンとして何が出来るかを考えるんだ。文化で何ができるかを考えた時に、初めて詩人とかミュージシャンっていう名前が付いてくるんだ。だけどこれが今の原発問題をどうするかに取り組むだけのものだったら、和合(亮一)さんであろうと大友(良英)さんであろうと、肩書きなんて必要なくなるんだよ。
――昨日のミチロウさんのステージを見ている人の中には若い世代の方がたくさんいて、みんながミチロウさんの歌にものすごく鼓舞されているのを感じました。
昨日は1曲目から歌詞を替えて“お前なんて知らない”を“原発なんていらない”と歌ったりしたんだけど、あれはやっぱりひとつのパフォーマンスでしかないね。ただ、もうひとつ「アザラシ」っていう歌をそのまま「福島」に替えて歌ったのは、今の福島の現実をそのまま歌いたかったからなんだ。“手も足もでない/助けが呼べない/被害妄想/ねじれてそのまま”“泣いてもダメさ/叫んでもダメさ/笑ってもダメさ/逃げても無駄さ”ってね。あの歌にポジティヴなところはまったくなくて、ただ今の福島そのものを歌いたくてね。だからあれを聴いた人の中には「いまの福島ってそうなんだよな」って、逆に落ち込んだ人もいたかもしれない。なんとなくそれは感じたよ。でもそこからは目を背けたくなかったんだ。それが俺の福島だったから。

――今日はお忙しいなか、本当にありがとうございました。このあとはすぐに会見があるんですよね。
会見ねぇ。俺、本当に苦手なんだよ(笑)。大友さんと和合さんはしゃべるのが得意でしょ。俺はだめなんだよね。自分は何がいいたいのかわかんなくなっちゃうからさ(笑)。
(All Photo by 佐々木亘)
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