ライヴがぱたっとななくなって、自分が透けていくような感じがして怖かった

──実は、どんどんカネコさんが突き進んでいって動員も増やしていくなかで、みんなが同時に休む瞬間がコロナによって起こったことが良かったんじゃないかなと思っていたんです。
それは思いますね、休みかたがわからなくなってました。動きすぎてて。だからコロナになった時の虚無は、急に暇になっちゃったことにもあると思います。なにもやってない自分が動いてる生ゴミかな?みたいな。かろうじて家住んでますっていう。今日も明日も暇でやることないし、毎日音楽でやることがあったから、その状態に戻らせてくれ~って思った。
──そういうときっていろんな感情が同時に一気に出てきません?
うん、怖かったし、焦りますよ。ライヴの本数がとんでもなく多かったから、それがぱたっとなくなることによって自分が透けていくような感じがして怖かった。私普段から心配性だし不安症だから、これまではそれを忙しさで紛らわせていたんだけど音楽がやれなくなっちゃってからはそこが膨らんでいくばかりで。そこを解消してくれるのが音楽だったのに、その我を忘れさせてくれるものがなくて。
──ワークホリックですね。
そうですね、レコーディング終わった頃にはこっちがあがいてもしょうがないし曲も作れないなら作らないし、めちゃくちゃ休もうと思って。全てをやめましたね、開き直って。そしたら楽になりましたけど……。でも、ほんと、今ここで立ち還れてよかったかもしれない。忘れかけていたかもしれないから。今まではちょっとはこういう言い回しをしたら誰かひとりでも傷つくかもって考えてたんだけど、それを一回考えずに作ってみました。
──それは周りの目が気になるということ?
周りからどう思われてもいいんだけど、聴いている人がふとマイナスに進んじゃうようなことはしたくないなと考えてた……傷つけるってなんだろう、わかんないけど……って。
──それはリスナーに対して?
そう、誰が聴いてるかわからないから。それがある時からすごく大きくなっちゃってたかもしれない。そこで慎重になっていた節はあったかもしれない。
──誰も不幸にしたくない?
不幸にはしたくない。嫌うのはいいんだけど。音楽は好みだから、好みじゃないしむしろ嫌いって人がいてもいいと思うんですよ。でもそうじゃなくて傷ついちゃうのが嫌だ。私自身が音楽を聴く上で歌詞を聴くことはあるんですけど、品があるないも感性だと思うけど、下品なのがあんまり好きじゃなくて。イライラじゃないけどなぜ?って思っちゃうから、作るときも考えてるのかもしれない。
──今回のアルバムの中で、とりわけ「許す」とか「叱る」って言葉が強く響いてきたんですよ。「春の夜へ」の時々叱って君がっていう表現は特に素晴らしい。そこに傷つく傷つかないはどうでもいいっていう覚悟を感じられました。
よかった! 一回全部忘れようっていう気持ちが強い中で作ったから、だから安心しました。
──叱るっていうのは、見守っていてほしいっていう感覚ですよね。
そうですね、怖いんですよね。感性が人のためになっていくというか。嫌なんですよ、他人なので。身近な人のための感性だったらいいけど。自分が嫌われないようにするための感性っていうのは不要なんですよ。それはわかってるしやらないようにしてたんだけど、ならざるを得なかった時もあったのかなあ。
──窮屈ではなかったですか? もっとズバッと言いたいなとか。こういう表現を取りたいなみたいな。
窮屈ではないけど、そこまでいく前にちゃんと考えられたなと思う。歌ってるのが本当に苦しい時期もあったし。歌が快楽じゃなくなってライヴだから歌わなきゃいけないってなっちゃってるそんな時期も実はあって。こういうこと言ったらそこに来ていたお客さんに申し訳ないなと思っちゃうんですよ。そういう気持ちの私が歌ってたんだってわかったらお金払って感動してくれてたとしたら、申し訳なくて。でもライヴが終わったときにはやって良かったというか、そういう葛藤とか含めて終わらせることができて良かったなと思うんですけど。でもやっぱりわかんねー、つらーいってなってるときはありました。
──対象にお客さんがいるのは仕方ないにしても、身をすり減らして表現する意味ってなんなんだよ、結局は自分のためでありたいっていう風に思ったのんですかね。
自分のためにやりたいやっぱり。音楽なんてそのためでしかないと思うし。コロナは辛いけど、その期間があって良かったというところはある。ここを乗り越えられなかったらもう音楽できないなというか、乗り越えられたらもう大丈夫だっていう考えに変えました。ここで辞めるって言い出す人がいたらそれまでだったんだなと思うようにしました。