2014/11/18 19:17

ひょうたんのラスト音源となる2タイトル同時発売

のベーシスト二宮友和が、ギター・ヴォーカルとして活動するバンド、ひょうたん。バンドはしてしまったが、その20年に及ぶ歴史のラストを飾る音源を2タイトルを同時にリリースする。初期のカセット音源や、廃盤となった1stアルバム収録曲、そして待望の新曲が収録されており、ひょうたんの歴史の集大成となっている。独自の活動ペースと音楽性を貫いてきた彼らの歴史を、今こそ体感せよ。


ひょうたん / UEN
【価格】
mp3 単曲 150円 まとめ購入 1,200円
wav 単曲 200円 まとめ購入 1,500円

【Track List】
01. 太陽橋 / 02. 遠雷 / 03. UEN / 04. 夏の日の午后 / 05. 秘密 / 06. 悪い癖 / 07. 望郷 / 08. 夜の散歩 / 09. なんもない


ひょうたん / ひょうたん(再発盤)
【価格】
mp3 単曲 150円 まとめ購入 1,200円
wav 単曲 200円 まとめ購入 1,500円

【Track List】
01. 僕が笑う向日葵のように下品に / 02. 潮騒 / 03. 宇宙の傍らで / 04. 通り雨 / 05. 円い月 / 06. 月のことだま / 07. 雨の日 / 08. 夜の住人 / 09. 円い月(独身バージョン) / 10. 悲しき男

INTERVIEW : 二宮友和(ひょうたん)

長く続けるなんて、かっこいいもんじゃない。長く苦しい道に見合ったものでもない。それでもこんなに泣けるのは、バンドの生き様が滲みだすから。長さは、深さ。ひょうたんの底は、もう深過ぎて、想像するしかない。だからこそ、もう一度彼らの音源を聴きなおしてみようと思う。

eastern youth二宮友和率いるひょうたん、20年の歴史が完結する。

インタビュー : 飯田仁一郎(Limited Express (has gone?))
文 : 前田将博

左から 奥平厚志(Ba)、二宮友和(Vo, Gt)、林康雄(Dr)

高校を退学して、音楽がやりたくて上京した

ーー下北沢THREEでのラスト・ライヴ、お疲れさまでした。やはり感慨深いですか?

すぱっと終われて、気持ちよかったですね。

ーーひとつのバンドが結成して解散するまで、それぞれの大きなストーリーがあると思います。今日はバンド・ヒストリーを聞かせていただこうと思います。二宮さんが、最初に音楽と出会ったのはいつ頃だったんでしょう?

聴き始めたのは小学校くらいですかね。父親がちょっと音楽が好きだったので、ノーランズとかアバとかも聴いていました。自分でも興味を持って聴くようになったのは、ノーランズが最初かな。

ーー自分で演奏するようになったのはいつ頃ですか?

中学に入ってからですね。その頃は洋楽を聴くようになっていて、中1の夏にヘヴィ・メタルに出会ってからギターをやりたいと思いました。

ーー1番最初に出会ったヘヴィ・メタルは?

マイケル・シェンカーだったと思いますね。

ーーギターからだったんですね。その後、高校ではどうでしたか?

実家のある愛媛の高校に行っていたんですが、途中で辞めました。

ーーそれは、音楽をやるんだという思いがあったから?

音楽をやりたくて学業に集中出来なかったのはあると思いますが、そのために学校を辞めたわけではないですね。行きたくないとか、悪さをしてとか、いろいろ重なってですね(笑)。それで、通っていれば高校3年になる年にこっち(東京)に出たんです。冬頃だったと思いますね。

ーー上京した理由は音楽だったんですか?

ずっと音楽がやりたかったですからね。高校を自主退学したのをラッキーだと思って。せっかく辞めたんだし、そのまま何もしないのも体裁が悪いとか、そういう理由を付けて東京に出てきました。でも、将来的なことは何も考えてなかったですね。自分のやりたい音楽とかも、その時は本当に何も考えてなかったです。ただバンドをやりたくて出てきた。東京に出たかった。田舎から出たかったんです。

ーーでかい世界に出たいという気持ちが強かったんですね。音楽で食うんだっていう強い思いは、その頃はあまりなかったと。

絶対に食ってやる、ミュージシャンとして成功するんだって感じではなかったですね。好きな音楽は、お金に結びつくようなものではないと分かってましたから。

ーーひょうたんは、東京に出てきた頃に結成したんですか?

出てきて2年くらい経つ頃ですね。

ーー東京に出てきてからひょうたんを結成するまでの2年間を教えてもらってもいいですか?

ひょうたんの奥平(厚志 / Ba)は中学校が同じで、その頃から一緒にバンドをやっていました。彼も大学受験に失敗して、あてもなく東京へ出てきたんです。それで一緒にやろうかって話をしてました。それから2年間は、一緒にメンバーを探していましたね。

ーーその頃、eastern youthはもうやってたんですか?

それも2年後ですね。東京に1990年に出てきて、eastern youthに入るのは92年です。

ーーひょうたんと同時期に始めたんですね。eastern youthが始まるきっかけは何だったんでしょう。

きっかけは全然別で、eastern youthは、建築現場のバイトが一緒だったんです。eastern youthも東京に出てきたばっかりで、ベースがいなかったんです。それで、ライヴがあるんだけどメンバーがいないから手伝ってって言われて。俺、ちょうど坊主頭だったんですけど、とりあえず坊主ならなんでもいいみたいな感じで(笑)。それが92年の年明けくらいだったと思います。その後、春くらいになって、その頃うちに居候してた人づてに、ひょうたんのドラムの林(康雄)がアパートに転がり込んできました。話を聞いたら、住み込みで就職したんだけどうまくいかないで辞めた。ドラムをやるつもりで出てきたって言われたんです。それで、よく知らないやつだったけど、スタジオに入ってみるかってなりました。

ーー3人でスタジオに入った時のことは覚えてますか?

ぼんやりとはありますけど、特にビリビリと化学反応があったような感じではなかったですね(笑)。

ーーそれから、どんな風にバンドになっていったんでしょう。

それまでに会った人… 例えばパンクの知り合い伝手に出会った人は、オールド・スクールで合わなかったり、メンバー募集で来たプログレ好きの人とかは、やっぱりもっと固い音が好きだったりとか、微妙な所で音楽性が合わなかったんです。感覚が合わなかったんですね。林も趣味は違ったけど、気兼ねなく出来ると思った。結局は音楽性が完全に一致してるよりは、フィーリングが合っていれば良かったんだって、今振り返れば思いますけどね。

ーーバンド名はどうやって決めたんですか?

最初は「夏の日の午后」っていう名前でした。勅使川原三郎さんていう前衛舞踏家がいまして、その人の舞台のタイトルからとったんですよ。それを見たわけではないんですが、写真を見てかっこいいなと思って。それで気に入ってつけたんですが、高円寺20000Vとかに出ると同じようなセンスを感じる名前のバンドが多くて、みんな知性的でかっこよくやってるんですよね。俺らも、かっこいいアバンギャルドなものをやりたかったんだけど、どうもそういう風にならない。実態と離れてるなと思って、ひょうたんに変えました。

ーーひょうたんにしたのは、どなたの案だったんですか?

それは僕ですね(笑)。その頃は、やけくそだった。なるべくかっこ悪い名前にしたいくらいに思っていたのかな。自分達が音楽をやっていくにあたって、風呂無しのアパートを大家に追い出されたりする生活の中で、かっこいい前衛的な芸術みたいなものに結びついていかなかったんですよね。なので、そこは目指さずに、3人で出てくるものを伸び伸びやるみたいな感覚になりましたね。

ーーメジャー・デビューしたいとか、大きい会場でやりたいみたいな強い要望はなかったんですか?

全くなかったですね。そういうのがある人は、関わる人の中ではいなかったんじゃないかな。

ーーeastern youthも含めて?

ないですね。当時だと、メジャーから出したことがあったのは、周りでは怒髪天くらいだったんじゃないかな。それに対して、すごいなって思ったくらいです。ブッチャーズ(bloodthirsty butchers)とかはあったのかな。可能性みたいなものが全く見えない時期でしたね。

一つのバンドが解散したってだけですね

ーーその後、音楽で食べていこうっていう自覚が生まれたのは、eastern youthがメジャーに行った頃ですか?

そうですね。メジャーに行って、印税が入ったタイミングでした。98年か99年くらいかな。

ーーeastern youthとしては状況がどんどん良くなっていったと思うんですけど、その頃のひょうたんはどんな状況だったんでしょう?

その頃に林が結婚して、休みたいという話があったんです。98年頃ですね。その頃に活動休止に入りました。

ーーひょうたんは周りがどんどんメジャーに行ったりしていく中でも、かたくなに自分のスタンスを守っていたんですね。

ひょうたんの活動の中で、90年代前半から中頃にかけて、上向きだったことはないんです。横ばいか下向きかって感じだったので、当然のことというか、そこにギャップを感じることはなかったですね。みんな急にどかんとなったわけではなくて、良い状況になるまでのプロセスがありましたからね。音楽性を考えても、eastern youthもブッチャーズも、歌があってメロディがあって、受け入れられてもおかしくないような音楽だと思いますしね。

ーーそれに対してメンバーは、eastern youthみたいにがっつり活動したいみたいに話すことはなかったんですか?

そんな話もしなかったですね。メンバーの中で俺だけ別のバンドをやってるっていうのを見てて、どう思ったのかなっていうのは、今思うとありますけど。

ーーそのままマイペースに活動を続けて、1998〜2002年までお休みしてたと。

休んでる間に2人とも就職したりして、生活のペースがしっかり出来たのでもう一回やろうかって話になりました。それを言い出したのは奥平からだったと思うんですけど、たまに会ったりはしてたんで。ちょろっと会った時に、そういう話になったと思います。

ーー活動再開をして、2005年に坂本商店からミニ・アルバムをリリースしたのは、ターニング・ポイントでしたか?

俺が出したいと言ったんですよね。2003年くらいに、ひょうたんの活動を再開して曲も出来ていった中で、90年代とは違う地に足をつけた積極的な活動をしたいと思ったんです。

ーーその頃はメンバーに家族もいて、仕事もあってっていう中で、ひょうたんはどんなペースで活動していこうと考えていたんでしょうか。

2000年代は完全に週末バンドでしたね。

ーーその中でのモチベーションは、どのような感じでしたか?

ずっと続いてたのは、3人ともやりたいからに尽きると思うんですよね。音楽的にも商業的な成功は最初から期待してなかったし。音楽をやりたいっていう、学生の頃のやり始めた感覚とそんなに変わってない。

ーーそれは、ひょうたんがやりたいってことですか? それとも、この3人でやりたいという思いでしょうか。

... 3人で、でしょうね。やってる時は考えたこともなかったけど。実際に一人辞めるってなった時に、メンバーを入れ替えることを考えなかったんでね。この3人でやるっていうのは、大前提だったと思います。

ーー解散の理由を教えていただけますか?

奥平が東京を離れて、ニュージーランドに移住するんです。それは家族も一緒だし、彼の仕事としての挑戦でもあるので。音楽も完全にすぱっと辞めて、それに集中したいと。

ーーそれは、いつ頃に言われましたか?

具体的に言われたのは一年くらい前ですかね。

ーー20年の歴史に幕を下ろすっていうのは、普通の人は想像つかないですよね。

でもまあ、普通ですよね。一つバンドが解散したってだけですね。

ーー今回、活動休止ではなく解散にしたのは?

ニュージーランドに移住するからですね。物理的に出来なくなる。もう一度やることがあったら、活動再開じゃなくて再結成とかでいいんじゃないかな。まあでも、再結成する予定が無いから解散なんですけどね。再開する予定もないですし。

ーー解散の時期を、一年後にしようと思ったのは何故なんでしょう?

ニュージーランドに行くタイミングのギリギリまではやろうと奥平も言ってたので。それまでは出来るわけじゃないですか。将来的に期待が出来ないから辞めるわけじゃなくて、やること自体が目的でやってましたからね。目標があるわけでもなかったし。その後に、一応最後に2枚CDを出そうってことになりました。曲もあるし最後に出したいなってみんなで話して決まりましたね。

ーーCDを出そうってなった時には、最後の下北沢THREEのライヴも決まってたんですか?

本当は2月末にどこかの会場を押さえて、ちゃんとした最後のライヴをやろうとしたんです。でも、10日と11日のライヴのオファーが、丁度同じ日に別々に来て、これも出たいなと思って。全部やると客割れもするし、予定していた会場も押さえられなかったし、この2日間だけに集中しようってなりました。人の企画なんですけどね。

上京してからの青春みたいな感じでした

ーーひょうたんの曲はどうやって作られているのでしょうか?

時期や曲によってもバラバラなんですが、『UEN』に入っている初期の曲は、スタジオでドラムとベースで作っていました。俺もギターを合わせて弾いてましたけど。リズム・パターンやベーシックのコンビネーションで、自分たちらしいもの、ぐっとくるものが出来た時に、曲に発展させていく感じです。

ーーリズム隊からなんですね。てっきり二宮さんが作ってると思っていました。

ほとんどがリズムからですね。だから、最初の頃は展開が少ないんです。ワン・パターンというか、リフ一つのループみたいな感じなんですよね。その後に、ちょっとずつ変わっていきました。

ーーどんな風に変わりました?

コード進行を動かすようになった(笑)。それまでは、ハード・コア的じゃない気がして、コード進行が流れていくことに抵抗があった。ちょっと歌謡曲的になったり、シティ・ポップっぽい感じに聴こえてしまうのを、過剰に警戒していた。でも、それをちょっとだけ出来るようになりましたね。

ーーリズム隊からは作るのは変わらず。

最近の曲はギターから作るのが多かったかな。

ーー初期の曲と新曲が『UEN』に入っていて、その間の曲が『ひょうたん』に入っていますよね。

これだと両方同じくらいの曲数になるっていうのもあって。

ーーやっぱ初期の曲と新曲とを聴き比べると、全然違いますよね。

ライヴでも「夏の日の午后」とかをやったんですけど、改めてコピーし直してみると昔の方が結構細かいことをやっているんですよね。

ーー新曲の「遠来」「太陽橋」「UEN」は久々の録音ですよね。

5年ぶりくらいですね。解散が決まって、とりあえず録ろうと思って録り始めたんです。

ーーひょうたんというバンドは解散してしまいましたけど、3人にとってはどんなバンドだったんでしょうか?

上京してからの青春みたいな感じですよね。ずっと生活に沿って20年もあったわけですからね。

ーーeastern youthとは大きく違いますか?

僕にとっては、どっちも同じですね。バンド一本に絞ってやっている人と同じくらい、どちらのバンドにも集中していたし、思い入れを持ってやっているので。

ーーひょうたんのMCを聴いて、生活の一部だなと感じました。eastern youthをやりながら、最も商業的な部分から遠いひょうたんを20年やり続けてきたのは、実はすごいことなんじゃないかなって思います。

確かにそうですね。ひょうたんも、逆にお金が発生してないからこそ続いたってバンドだと思うんです。逆に言うと、eastern youthはメンバー間にお金があっても気持ちよくやれている。変な奢りもなく出来るんです。特にスタンスを意図的に変えてるわけではなくて、どっちも自分たちの音楽を好きな意識がしっかりとある3人が集まったバンドだと思うんです。だから楽しいし。

ーーなるほど。ひょうたんにはこの3人、eastern youthはこの3人でやってるってことが、本質的な部分なんですかね。

僕は運良く、良いメンバーに出会えたってことなんだと思います。

RECOMMEND

eastern youth / 叙景ゼロ番地

圧倒的なライヴ・パフォーマンスで人間の本質を鋭く、そしておおらかに歌い切り、時代に立ち止まらず、信念を頑なに譲らず表現し続ける日本のロック / パンク・シーンに影響を与えつづける重要バンド、eastern youthの2012年の作品。

>>eastern youthの特集ページはこちら

静カニ潜ム日々 / The Present

無駄を削ぎ落したシンプルさ、かつ綿密に構成された楽曲に伸びやかで美しい歌声が魅力の3ピース・エモ・バンド「静カニ潜ム日々」。轟音の中でも埋もれる事なく歌われる美しい旋律、涙腺を刺激する叙情的な楽曲、ヴォーカル川元の透明感のあるどこか物悲しげな美しい声、絶妙なバランス感覚で抑制が効いたバンド・アンサンブルで、3ピースならではの音の隙間を活かした綿密なソングライティングで彼らは”心から溢れ出す切なさとは何か?”を体現する。

>>静カニ潜ム日々の特集ページはこちら

壊れかけのテープレコーダーズ / 踊り場から、ずっと/羽があれば

昨年発表された傑作3rdアルバム『ハレルヤ』も記憶に新しい壊れかけのテープレコーダーズ、早くも届けられた最新作は初のシングル作品にして両A面!「踊り場から、ずっと」は飛びきりポップでキャッチーなナンバーで、ライヴのクライマックスを飾るアンセムとして、既にファンの間では人気の楽曲である。「羽があれば」は清涼感のあるコードワークやハーモニーとハードなボトムが見事に融合した、スミスとレッド・ツェッペリンを足して割ったようなミディアム・ナンバーである。ボーナス・トラックには昨年10月に行われた新宿Motionでのワンマン・ライヴからの音源、及び、昨年末に亡くなられたJIROX(今井次郎)との共演の際の音源(komoriとyusaのアコースティック編成)を収録。

PROFILE

ひょうたん

1992年 故郷・愛媛の仲間が集まり「夏の日の午后」というバンド名で結成
1995年 バンド名を「ひょうたん」に改名
1996年 自主企画ライヴ「音楽牧場」を始動
1998年〜2002 年 一時活動休止
2003年 活動再開
2005年 1stミニ・アルバム『ひょうたん』を坂本商店よりリリース
2008年 1stフル・アルバム『給水塔』をSideOutRecords よりリリース
2013年2月10日、11日の2日間、下北沢THREEで行われたライヴをもって解散

>>ひょうたん official website

[インタヴュー] ひょうたん

TOP